「風評加害」とは何か…? 既に敗れた中央言論の後追い、かつ年単位の周回遅れを自覚しない河北新報社説の問題点
差別・偏見は13年経った今も無くならない
〈 気になるのは最近、風評という言葉が「加害」の文脈で用いられることだ。今も福島県産の購入を避けたり、被ばくの影響を不安視する行為を、福島の復興に水を差す「風評加害」と指摘する声が官民問わずある。処理水を「汚染水」とあえて言い続けるなど、苦渋の想いで解放放出を見詰める地元からすれば承服しがたい言動や行動も確かにある。 【写真】福島の「風評問題」の真の責任はどこにあるのか…? ただ「加害」の責任が問われるべきは事故をもたらした側に尽きる。福島の人々をはじめ被害を受けた側をさらに加害と被害に分け、対立させかねないことは避けねばならない。 「安全」を額面通り受け容れられないのは、それを強調する政府や事業者への不信感ゆえの面が大きい(中略)東電の姿勢が、国内外で信頼感の醸成を妨げてきた。(中略)風評の形成に無縁とは言えない報道機関としても肝に銘じておきたい 〉(河北新報・2024年3月24日 社説) なぜ、河北新報は「風評加害」という言葉をこれほどまで問題視するのだろうか。 東電原発事故から13年経った今も、福島では「風評・偏見差別」が大きな問題とされる。行政は「正確な情報発信」を掲げ対応してきたが、処理水を「汚染水」と呼び続ける勢力や、中国等での日本産品危険視は消えず、差別・偏見は無くならない。そもそも、これまでの「風評対策」はどれだけ有効だったのか。 2022年、独立系シンクタンクのアジア・パシフィック・イニシアティブ(API)「民間事故調」は、行政の対策を「風評被害の概念が曖昧」「有効性への視点足りず」、「(正確な情報発信方針は)冷静かつ根気強く対応しようというまっとうな態度のように見えるが、実際には、風評と正面から向き合うこと、差別や偏見を持ちその解消を阻害しようとする過激な者たちに立ち向かうことを恐れるリスク回避、(中略)“事なかれ主義“に他ならない」と断じた(API 論考 / 2022/03/10)。 風評とは人の心がもたらす災害であり、その全ては人災である。当然ながら、「被害」があるからには「加害」も存在する。前述の事故調も指摘した、「差別や偏見を持ちその解消を阻害しようとする過激な者たち」などは、まさにそのものだろう。風評問題を解決するためには、「加害」のメカニズムと「加害者」の正体を明らかにする必要がある。河北新報は、こうした追及を妨害したいのだろうか。 著者は先日、2024年3月20日に行われた「東日本大震災・原子力災害 第2回 学術研究集会」において、まさに「風評加害」という概念の来歴と発展、そしてその定義を歪め、不当な悪印象を広め、当事者からの告発を妨害しようとする動きについて発表したばかりだ。学界発表でも強調したが、「風評加害」を指摘する言説には、「抑圧された被害当事者からの告発そのもの」が多大に含まれている。 さらに、それらから指摘・告発されているのは河北新報が書いたような「福島県産の購入を避けたり、被ばくの影響を不安視する行為」のことではない。事実に反した流言飛語の拡散・科学的知見の無視や結論が出ている議論の不当な蒸し返し・不適切な因果関係のほのめかし・正確な事実の伝達妨害などによる印象操作や不安の煽動をさす。 追及されているのも一般人ではなく、上記の振舞いを繰り返すことで風評の温存と長期化に加担してきた特定マスメディア・文化人・学者・教育者などの既得権益者たち、その本人や組織だ。