『葬送のフリーレン』が成功した“時間と感情”の描き方 斎藤圭一郎監督の演出を振り返る
『葬送のフリーレン』のTVアニメが佳境を迎えている。本作が支持を得た理由はどこにあるのか。本稿では、物語の構成や斎藤圭一郎監督の演出から見える、時間と感情の描き方について考えていきたい。 【写真】斎藤圭一郎が「積み上げてきたありったけをぶつけた」とした『葬送のフリーレン』第26話場面カット(複数あり) 原作は『週刊少年サンデー』にて2020年から連載されている、山田鐘人の漫画だ。2023年の秋からTVアニメが放送され、X(旧Twitter)では連日ファンアートが投稿されるなど、高い人気を博している。主人公はかつて勇者一行として旅をした長命なエルフの魔法使い・フリーレン。フリーレンは、長い年月を経て勇者ヒンメルとの死別後に、人について知ることを怠ったことを後悔し、時の流れと変わる人間関係を通じて自己と向き合い成長していく。 今作はTVアニメとして“上手い”と感じる場面がとても多い。近年、制作されるアニメは増え続け、スタッフの数が追いつかないほどの状況になっている。それゆえに映像が素晴らしい作品ほど、そのクオリティを保ち続けるのは難しい。『鬼滅の刃』のように全話圧倒的な作画を続ける映画のような作品もあるが(実際に劇場版としても公開されている)、長い放送の中では映像にも緩急をつけることが必要とされる。派手なバトルシーンやアクションシーンだけではなく、何気ない日常描写をいかに見せられるかが重要となるのだ。『葬送のフリーレン』はこの緩急が非常によく効いている。魅力的なバトルシーンとあわせて、演出力で魅了する回がとても多いのだ。 そこには斎藤圭一郎監督の手腕が垣間見える。『ぼっち・ざ・ろっく!』の大ヒットによって一躍注目監督となった若き才能が、今作でさらに大輪の花を咲かせた。この2作に共通するのは、原作をTVアニメへと翻訳する際にどのように話を広げ、何を表現するのか見極めている点だ。 『ぼっち・ざ・ろっく!』では、4コマ漫画の特性上1コマでしか表現されていない箇所をさらに膨らませて、アニメとしての映像表現を駆使していた。例を挙げると「承認欲求モンスター」が登場する第4話での一連のシーン。原作では1コマのみで描かれていたが、TVアニメではゴジラを連想させるような映像となっており、強い衝撃を視聴者に与えた。『ぼっち・ざ・ろっく!』では、主人公・後藤ひとりの卓越した演奏技術と、過剰なまでのマイナス思考のギャップを演出することによって、感情を表現し、視聴者へ共感を促すことに成功していた。 『葬送のフリーレン』は想像する余地の大きい4コマ漫画と違い、物語が流れている漫画なので原作を大きく逸脱することは少ない。しかし、細やかな点で変更が見受けられる。 アニメーションに限らず、表現で重要なのは何を伝えたいのか」という点だ。とても派手で華麗な映像表現があったとしても、伝えたいものがなければ仏を作って魂入れずの状態になる。映像や絵で“映せないもの”をどう描くのか。 フリーレンが新たな旅を始める行動原理は「人間の寿命が短いとわかっていたのに、どうしてもっと知ろうと思わなかったのだろう」という後悔だ。なのでこの場合は、変化が少ない長命種のエルフからみた、人間社会の時間による変化と、人間の感情の移り変わりがその魂の部分にあたる。 かつて勇者一行の魔法使いとして旅をしていたエルフのフリーレンが、再び旅を始めるというフォーマットは、一種の転生ものとして見ることもできる。しかしフリーレンが特殊なのは、彼女がエルフという長命の種族であり、その時代を共にした人々はほとんど亡くなってしまっている点だろう。フリーレンそのものは変化をしないのに、周囲は変化を遂げているという部分が、本作の時間を描くキモとなる。 第22話「次からは敵同士」では、フリーレンたちは町で1番美味いと評判のレストランへと出向く。そこはかつて勇者一行が食事をした店であり、当時の店主は先の時代でもこの味を残すと言う。しかし月日が過ぎ、店主も代替わりしてしまい、豪語していたのにもかかわらず味は変化している。だがその味は、さらに美味しく洗練されていたのだった。 このエピソードが示すのは変化しないフリーレンから見た、人間社会の時間の経過だ。そこにはかつての思い出が変化していくことに対して、寂しさがありつつも懐かしみながら、さらに人間の文化がより発展していく様を描き出している。このエピソードは長命種のエルフのフリーレンが主役であるからこそ、表現できる時間の描き方だ。Evan Callの音楽が合わさることで、より雄大な感覚が演出されている。 一級魔法使い試験の二次試験も同様の試みが伺える。ここで強力な敵となるのが、複製体のフリーレンだ。かつての魔王討伐のメンバーであり、世界屈指の実力を持つフリーレンを擬似的に相手にすることで、人間という種族が進化し続けている姿を描き出そうという意図を感じる。原作の構成を引き継ぎながらも、各話の演出のキモを外さないことで、よりその意図が明確に際立っている。 そして感情を描くための工夫として、現在のパーティに目を向けたい。弟子である少女のフェルンと、戦士のシュタルクという2人と共に旅をしているが、2人の恋愛に至らない微妙な関係が、漫画よりも強調して描かれている。これは旅を通してフリーレンが最も理解できなかった人間の感情、つまり勇者ヒンメルが向けてくれていた好意を知るために必要な行程である。 フェルンとシュタルクの関係性は、かつての勇者一行にはなかったものだ。フェルンはかつての旅の仲間である僧侶ハイターに育てられており、その後フリーレンに弟子入りする。そのため、思春期以降にハイターとフリーレン以外で濃厚な人間関係を築ける機会は少なかった。そこで登場するのがシュタルクである。視聴者から見れば2人の関係は恋仲に近いようなものであるものの、時にはフェルンの理不尽とも言える感情の変化に振り回されてしまうシュタルクが不憫に見えるときもある。 しかし、同年代の恋愛対象となる存在がいなかったとこともあり、フェルンはその距離感と自身の感情をうまく処理することができないでいる。それを年長者として眺めるのがフリーレンという構図となっている。ここでフリーレンは擬似的に、かつての自分が知ることができなかった、恋愛感情が熟成されていく様子を見ていることになる。その結果、ヒンメルが自身に対して、どれほどの気持ちを向けていたのかを、徐々に理解していく一助となる。 そして過去にヒンメルがフリーレンに行ったことを回想で挟むことによって、フリーレンは人の思いとその意味を知っていくことが理解できる映像となっている。ただし視聴者はヒンメルの行動が恋愛としての好意によるものだと認識するものの、フリーレンはまだ人の感情に対してドライなところがある。視聴者とフリーレンは行為の意味を知っていくという意味では同じ立場でありながらも、感情的には一致することはない。一種の鈍感系主人公の様相を示しているのも、コメディとしても効いている。 フリーレンが旅を通して人間のさまざまな感情を知っていっても、すでにヒンメルはこの世にいない。フリーレン自身は長命が故のドライな性格なために苦悩することはないが、本質的にはすでに手遅れなことを知っていくという悲しい物語だ。それを悲しく見せないために、フリーレンの性格はエンターテインメントとして成立するために欠かせないものであり、絶妙なバランス感覚の上に成立している。 このように原作の物語をうまく活かしながらも、TVアニメはそれをより強固にするような演出が重ねられることによって、時間と感情の変化が視聴者に伝わるようになっている。原作と映像化のあり方は様々な議論がなされているが、今作は幸せな結果になっていることは疑いようがないだろう。
井中カエル