松本清張は天皇制をどう捉えていたか 小説『象徴の設計』で語られた秘密
戦前の天皇制は「設計」された作為的な構築物であった
ここまでの叙述からでも、戦前の天皇制は山県有朋や伊藤博文らによって周到に「設計」された作為的な構築物であった、と清張が考えていたことがわかるだろう。 また清張は、久野収が鶴見俊輔との共著『現代日本の思想』(岩波新書)の中の「日本の超国家主義―昭和維新の思想―」で述べていること、すなわち天皇制の権力は「顕教」と「密教」との「微妙な運営的調和の上に」成り立っていたという説を認めていた。「顕教」とは天皇を神格化し絶対の権威と神権を持つ存在とする考え方で、軍人や国民にはこの考え方を示し、「密教」というのは天皇をあくまで「制限君主」とする考え方である。明治の元勲たちは、自分たちにとって天皇は「密教」的存在であることをよく承知していた。清張はこの考え方を踏まえて、『昭和史発掘』(1965〈昭和40〉1月~1972〈昭和47〉10月)で二・二六事件を、以下のように考察している。 ――天皇制における「顕教」と「密教」との微妙な調和は、天皇をめぐる元勲や重臣たちの分厚い体制に守られ、「顕教」と「密教」という相矛盾するものを含みつつも、明治・大正時代はうまく運営されていたが、その矛盾が露わになったのが二・二六事件であった。この事件は、「軍人勅諭」によって教育され、そこでの天皇についての「顕教」的な文言をまともに信じていた青年将校たちと、天皇制の根幹は「密教」的な部分だと考えていた昭和天皇や周囲の重臣たちとの、そのギャップが露呈した事件であった。だから、天皇制の根幹、すなわち「密教」的な部分についてよく了解していた昭和天皇は、重臣たちが襲撃されたことに激怒したのだ。―― 以上のような清張の説は、二・二六事件の真相、そして戦前天皇制の緊要部分に迫っていると思われる。二・二六事件とは、山形有朋たちが設計して作った装置に初めから内蔵されていた矛盾が噴出した事件であったのであり、山県たちが目論んだ天皇神格化から生まれた言わば鬼っ子が、二・二六事件の青年将校たちであった、と清張は考えていたのである。 この『昭和史発掘』には、「北原二等兵の直訴」や「天理研究会事件」など、取り上げられた話題の半数近くが、何らかの形で天皇制の問題と関わるものであった。とくに「二・二六事件」は『昭和史発掘』全一三巻の七巻分を締めていることを考えると、やはり『昭和史発掘』の最大のテーマは天皇制にあったと言えよう。 戦前の天皇制について、清張は以上のように考えていたが、戦後の象徴天皇制については発言していない。ただ、1978(昭和53)年1月号の「諸君!」への寄稿「「万世一系」天皇制の研究(略)」で清張は末尾にこう語っている。 「これは招来の万一のばあいをいう憶測だが、憲法第九条の副文の解釈が拡大されるような事態となったとき、第一条に規定された天皇の儀礼的な国事行為が、儀礼的ではなくなり、第九条の副文と合流するのではないか、という遠い空を望んでの杞憂も起こらないではない」、と。 現在、情けないことに、清張の「杞憂」が現実になりかけているのである。泉下の清張は深く憂慮していることだろう。 (ノートルダム清心女子大学文学部・教授・綾目広治)