63年前にシード獲得、立教大OB山口巌雄・元厚木市長「耐えるからこそ成長」…後輩にエール
感激したのは、応援団がとっておきの応援歌「セントポール」を歌ってくれた瞬間。箱根屈指の難所・遊行寺の急坂にも食らいついた。「1番つらかったのがあの坂。親父の声が聞こえたような気がしたんですよ。幻だったのかな。それで何とか頑張れたんですよ」。
シード獲得…即勉強
区間3位で弾みをつけ、総合6位でのシード権を獲得に大きく貢献した。「充実感はあるんですけど、集まってすぐ解散なんですよ。というのも次の日からはノートのコピーを見ながら英語、簿記、経済史の勉強。別のはちまきを巻いている訳ですよ。頭がいい方じゃないから、単位落とすわけにもいかないしね」と振り返る。
好走を実感したのは冬休み明けで通学した際だ。応援団から「お疲れ様でした」と大きな声であいさつされる。「うれしいような、気恥ずかしいような。すごく大事にされるんですよ」と当時を懐かしむ。
以降の競技人生では苦しさも味わった。2年時はどんどん実力もつけていたが、最後の強化練習後にレントゲンを撮ると、診療所で肺に曇りがあると言われて出走を禁じられた。箱根も出走できず。気持ちが離れかけた時、「練習をしなくてもいいからグラウンドに来いよ。麻雀なんてやってちゃ、お前は駄目になるからな」と部員に励まされて踏みとどまった。
2区でも力走
3年時はエース区間の2区で10位と健闘。ただチームは12位だった。4年時は調子が今ひとつで、9区15位。最後はフラフラになりながら走ったという。たすきをつなげず繰り上げスタートとなった。チームも11位で終了後には指導陣と一緒に涙を流したという。
卒業後は実業団で監督を兼ねて競技を続ける誘いもあったが、質店での修業の道に入り、独立後は金融や不動産、ディスカウントストアの運営など事業を拡大。修業時代も「9区で味わったたすきを渡すことができなかったつらさ、キャプテンの重責を果たせなかったことに比べたら、なにくそと思えた」と踏ん張れた。
同時に「箱根を走れず堕落してもおかしくない時にグラウンドに引っ張っていってくれた友情に助けられた。一言、ひとつの行動が支えになっていたんだなと」と周囲の人への感謝の思いも強くなっていった。