スター古生物学者2人が罵り合った勝者なき「化石戦争」、19世紀科学界の破滅の物語
友人から「友を装う敵」に
しかし、本質的な問題があった。古生物学はまだ始まったばかりで、その新しさから、マーシュとコープの間には、自分がそのリーダーになりたいという競争心が芽生えていたのだ。互いに自分の立場を主張した結果、2人の関係に亀裂が入った。 確執の発端となった出来事については諸説がある。1868年にマーシュが米ニュージャージー州の採石場で化石を探していたコープを訪ねたことがきっかけだ、という人もいる。マーシュはコープに隠れて採石場の所有者と取引し、新しい化石が見つかったら、コープではなく自分に渡してほしいと依頼したらしい。 コープの伝記を書いたジェーン・デビッドソンは同じ1868年、コープが新種エラスモサウルス・プラティウルスを発表したことがきっかけだとしている。この新種を復元する際、コープは重大なミスを犯した。尾と首を逆さまに記述したのだ。 マーシュはこの誤りを指摘し、コープに屈辱を与えた。コープは恥ずかしさのあまり、自分のミスが掲載されている学術誌を買い占めようとした。しかし、すでに手遅れだった。マーシュはコープ、そして科学界がこの失態を忘れることを許さなかった。
確執の激化
米国西部は先史時代の化石が豊富な土地だったが、2人が分け合って発掘できるほど広くはなかった。より大きな発見をしようと、2人とも必死に化石をかき集めた。 コープは1871年、マーシュのチームが放棄した米カンザス州の現場を訪ねた。コープはそこで、太古の空を飛んでいた爬虫類の骨格を発見する。それはマーシュが発見したものより大きかった。このため、コープは喜び、マーシュは憤慨した。 化石戦争が過熱するにつれて、マーシュとコープは、盗用やスパイ行為、論文発表を急ぐなど、さまざまな手段を用いて互いを攻撃した。コープは、マーシュとその研究を批判する場として利用するため、学術誌「American Naturalist」を購入したほどだ。 1877年から1879年にかけて、米ワイオミング州コモ・ブラフで発掘調査を行っていたとき、2人のライバル意識はエスカレートした。マーシュは、残された化石がコープの手に渡らないよう、現場を去る前に化石をすべて破壊することまで作業員に指示していた。 マーシュは1882年、米地質調査所の主任古生物学者に就任した。この地位のおかげで、マーシュは政府の後ろ盾を手に入れ、自身の研究を正当化でき、支援を受けられるようになった。また、これは潤沢な資金を得られることも意味していた。政治的な人脈のないコープには得られないものだ。この一撃によって、すでに脆弱(ぜいじゃく)だったコープの資金繰りはさらに悪化した。 1889年12月16日、さらに悪い知らせがコープに舞い込んだ。米内務長官のジョン・W・ノーブルがコープに書簡を送り、化石コレクションを手放し、スミソニアン協会に寄贈するよう求めたのだ。化石を集めていた当時、コープは政府機関で働いていたため、化石はコープのものではないというのがノーブルの言い分だった。 コープはこれに対し、発掘調査に8万ドル以上の私財を投じていると主張した。また、コープは自分に対する陰謀だと抗議した。この書簡にはノーブルの署名があったが、コープは別の人物が書いたものだと考えていた――マーシュに違いない。 もしマーシュがコープを妨害するつもりであれば、コープはマーシュを道連れにするつもりだった。コープには秘密兵器があった。マーシュの失態の数々を記録したメモや書類だ。 コープはこの記録をジャーナリストのウィリアム・H・バルーと共有し、マーシュが同僚や助手から定期的に盗用し、さらに、連邦資金が自分に流れてくるよう企てたと主張した。この内容を日刊紙ニューヨーク・ヘラルドが、1890年1月12日、記事として掲載した。 これに対し、マーシュは一連の記事で自らを擁護し、コープを痛烈に批判した。2人は大手新聞社を“私怨のボクシングリング”に変えてしまった。 ニューヨーク・ヘラルド紙における対決は、数十年にわたる化石戦争のクライマックスとなった。マーシュとコープという2人の優秀な科学者は、世界を理解しようとするのと同じぐらい、互いを妨害するために、懸命に努力した。この確執は2人の研究を加速させた。コープは1400の科学論文を執筆し、2人合わせて130以上の絶滅種を定義した。 しかし、その代償は大きかった。1892年、マーシュは地質調査所の上司から辞職を求められた。コープは死去する1897年の数年前、生活のために化石コレクションを売却した。化石戦争とその最終決戦は2人を破滅に追い込んだ。
文=Parissa DJangi/訳=米井香織