「沖縄戦の実態解明に重要手掛かり」 沖縄で戦死「京都府出身2467人の名簿」発見
79年前の沖縄戦で戦死した京都府出身者をまとめた戦没者名簿が、今年3月に京都府庁で見つかっていたことが分かった。兵士の階級や死亡年月日など2467人分を記録した簿冊で、戦後に関係団体が作成したが近年、所在が分からなくなっていた。専門家からは「沖縄戦の実態を解明する上で重要な手掛かりとなる」と評価する声が上がっている。 【グラフィック】那覇、糸満、浦添…京都出身者の死没地 名簿は「京都府沖縄慰霊塔奉賛会」が作成。京都商工会議所や府議会、京都市議会の関係者など有志で発足した同会が、1964年に沖縄県宜野湾市に慰霊塔を建立した際にまとめたとみられる。府内の2467人の階級、氏名、死亡年月日、遺族の代表者、住所が124ページにわたって記録されている。同会の活動は現在、一般社団法人「沖縄京都の塔奉賛会」が引き継いでいるが、同様の名簿は同会には残っていない。 京都府によると今年3月、府地域福祉推進課の資料などを保管する執務室の書棚から職員が偶然見つけた。建設当時、府が塔の費用の一部を支出した経緯から名簿が渡った可能性がある。これまでに外部からも名簿の存否について問い合わせがあったが、保管の有無を把握しておらず「資料はない」と回答していたという。 1945年の沖縄戦では地上戦が繰り広げられ、日本軍の主力となった第62師団(石部隊)は京都・滋賀の兵を中心に編成された。中国から沖縄へ転戦し、嘉数高地(宜野湾市)や前田高地(浦添市)などの激戦地で多くが死傷し、首里陥落後に南部に撤退。6月23日に日本軍は組織的戦闘を終えた。 ■首里の陥落前に53%が戦死 沖縄戦に詳しい京都府立大学の上杉和央准教授らの調査チームが、今回の名簿を分析した結果、沖縄戦を指揮した日本軍第32軍司令部のあった首里が陥落したとされる5月21日よりも前に53%が戦死していたことが分かった。 京都出身者の多くが配備された第1防衛ラインの嘉数高地と、第2防衛ラインの前田高地は、米軍の首里への進攻を食い止めるため敵軍を迎え撃った主戦場だった。激しい戦闘と総攻撃の失敗などによって、首里をめぐる攻防の前に京都出身者の半数以上が戦死していたことになる。首里陥落時に日本軍はすでに全体の7割を失っていたが、米軍の本土上陸を1日でも遅らせる「捨て石作戦」を取ったことで住民を巻き込み、生き残った日本兵も多くが南部で戦死した。 調査チームの奥谷三穂共同研究員は「誰がどういう時系列で亡くなったか今回初めて分かった。今後は他の資料とも照らし合わせ、沖縄戦で京都出身の兵士たちがどんな状況にあったのか実態を明らかにし記録していきたい」としている。