まだ島民2000人が残っていたのに…日曜劇場の舞台・軍艦島50年前の閉山が「最悪のタイミング」だったワケ
■「この島に骨を埋める覚悟だった」と無念を語った炭鉱夫たち 炭鉱での採掘や石炭精製の作業は、1973年末で終えた。そして、年が明け、1月15日閉山式が行われることになる。14日付の朝日新聞は「軍艦島あす閉山」という見出しで、こう報じた。 ヤマ元では13日から労組の主婦会、職場ごとの部会の解散式が始まった。(中略)島を離れて未知の世界で第二の人生を求める不安が、どの顔にもあった。 「この島に骨を埋める覚悟だった――」というあいさつで、採炭部会の解散式は始まった。地底の第一線で働いてきた110人余りの男たちは、四斗たる(酒樽)のカガミを抜き「どこへ行っても住所を知らせるけん」「元気でな」と威勢よく酒をくみかわした。再就職の話題は努めて避けていた。 下請け組員をふくめ、819人の離職者のうち、約120人は隣の高島鉱へ移る。「炭鉱はやはりカネがいいけん。子ども四人もおっては」(40歳)、「このトシでは他によか仕事もなかろう」(51歳)――と。 軍艦島の炭鉱夫たちの待遇は、一般的なオフィスワーカーに比べても良いほうだった。平均月収は12万円余。鉄筋コンクリートの団地の家賃は10円。水道代は無料。プロパンガスの購入補助も会社から出ていた。当時、「三種の神器」と呼ばれたテレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫も、ほぼ全ての家庭が持っていたという。 ■家賃・光熱費のいらない島から出れば、生活レベルがダウンする それに対して、阪神、中京地区から島に来た求人条件は、「残業月50時間程度で11、2万円」というもの。もしそこに転職するならば、これまでと違って家賃・光熱費がかかるぶん、夫婦で「共働きしなければ、生活程度を維持できない」と朝日新聞は書いている。 ---------- 主婦の解散式会場でも、話題は生活の不安だった。端島には小型トラック1台だけ。そこで育った子どもたちの、都会での交通禍まで、心配の種だった。さらに十数人の60歳を超える離職者。フロ番、船着き場の雑役など、炭鉱だから働けた。 (朝日新聞1974年1月14日付) ---------- 「海に眠るダイヤモンド」では、進平と結ばれて男の子の母となったリナ(池田エライザ)が、ジャズシンガーとして活動していたころヤクザともめ、端島に逃げてきたという設定だ。海に囲まれた孤島である端島ならヤクザも追って来ないと踏んで(実際には手下の男を向けられたのだが)、そこで生きていこうとしていた。やはり、実際にも、本島では居場所がなかったり、借金など、なんらかの事情を抱えていたりする人が、端島でひっそりと身を潜めて暮らしていたのかもしれない。 1月15日当日は、午前10時半から端島小中学校体育館に島民が集まり、閉山式が行われた。小中学校の校庭では子どもたちが「サヨナラ ハシマ」という人文字を作って空撮を行っており、その写真が今も残されている。