サイン変えぬ捕手に「もう代われ」 優勝候補を連続撃破…弱小校が見せた“青春ドラマ”
田尾安志氏は泉尾高3年夏に大阪大会で旋風…4強入りを果たした
1971年夏の高校野球大阪大会で、公立の泉尾(いずお)高校が優勝候補の強豪校を次々と撃破。4強入りの旋風を巻き起こした。エース兼3番打者だったのが、元中日外野手の田尾安志氏(野球評論家)だ。1年秋から投げて打って、弱小野球部を引っ張ったが、最後の夏はもはや、そんな感じではなかったという。全員が力をつけて、見違えるような結果を残した。青春ドラマの“完結編”だった。 【動画】うなり上げる剛速球は163キロ! 17歳高校生の衝撃の投球 田尾氏が入学した当時は見るも無残だった野球部を、部員全員が努力を積み重ねて変えていった。「監督は大学生で、来てくれているという感じ。指導したかと言えば、そんなことはないようなチームだったんですけどね」。リトルリーグで全国大会準優勝の経験があった田尾氏が引っ張る立場だったが、気が付けば個々が自主的に練習に励むなど成長。失策が当たり前だったようなチームが変貌した。 そこに至るまでには、いろいろなことがあった。3年春の大阪大会後の練習試合では、エースの田尾氏が捕手に駄目出しした。「キャッチャーのサインに僕が首を振ったら同じサインを出してきたので、また首を振った。そしたら、また同じサインを出してきたから、ちょっと来いって(マウンドに)呼んで『お前、俺が首を振ったら違うサイン出せ』ってね。でも、それからしばらくしたら、同じことをやるから『もうサードと代われ』ってゲーム中に代えました」。 結局、この件によって、三塁手が正捕手になったという。ちなみに三塁にコンバートされた元捕手はチームのキャプテン。田尾氏は笑いながら「あれは僕が決めたんですよ」と振り返ったが、当時は関係がギクシャクしなかったのだろうか。「別に雰囲気は悪くならなかったですね。今でもそのキャプテンとはちょこちょこ交流がありますよ」。ぶつかり合いながらも最終的にはお互いが納得して前に進んだ。これも「青春ドラマみたい」な高校時代のひとコマだった。 最後の夏の大会前、田尾氏は「学校にキャッチャーと2人だけでちょっと合宿させてくれないかとお願いした」という。「集中してコントロールをつけたいとの考えもありましたしね。茶道部の部屋があったので、そこを使ってやらせてもらいました」。高校野球の集大成に向け、燃える気持ちの表れでもあったのだろう。「強くなってきているという自覚をみんな持っていた。そこそこ行けるぞという気持ちでいたんです」。 大阪大会の目標は、泉尾の最高成績となる4回戦突破だった。ところが、組み合わせ抽選の結果、1回戦を勝てば、2回戦で、その年の選抜大会で8強入りした優勝候補の近大付と激突することになった。難敵との早期対決はチームに衝撃を与えた。「キャッチャーは『終わった』って言っていましたからね」と田尾氏は笑いながら明かしたが、この対戦が快進撃の始まりになった。1回戦で此花商を3-2で破り、2回戦では近大付に4-0で勝利した。