40年も国を保って「バカ殿」扱い。 何度も像が破壊された? 皇帝・劉禅の悲劇
劉禅(りゅうぜん/207~271)。その幼名である阿斗(あと)は、中国では「阿呆」とか「無能」の代名詞とされている。父の劉備や諸葛亮が建国した蜀を滅亡させた「暗君」という理由から「英雄」とは逆の意味で有名である。 だが、昔からいわれていることでもあるが、彼を本当に暗君と決めつけていいのかという疑問に当たる。いうなれば、江戸幕府を終わらせた徳川慶喜と比べるとわかりやすいのかもしれない。 ■趙雲に命を救われた若君 劉禅は西暦207年、荊州に身を寄せていた劉備と側室・甘(かん)氏との間に生まれた。このとき劉備はすでに47歳。戦で転々としてきた彼には、養子の劉封(りゅうほう)のほか息子はいなかった。それまでの子は戦で命を落としたか、何らかの理由で殺されたのだろう。 この年も曹操軍に追撃されるなか、劉備はさっさと逃げたので、貴重な世継ぎの阿斗を趙雲(ちょううん)が必死に守った。そのときの無双ぶりは『三国志演義』でも有名だが、ちゃんと「正史」にも記されていて、彼の活躍で阿斗こと後の2代目皇帝・劉禅は生き永らえたのである。 時は流れて西暦223年。蜀漢の初代皇帝・劉備は遠征先の永安宮で没する。皇太子・劉禅はその跡を継ぎ、首都の成都(せいと)で17歳にして皇帝に即位。死の間際、劉備は「これからは孔明を父と思うのだぞ」と言い残す。 劉禅はその遺命に従い、丞相・諸葛亮に軍政のほぼ全権を与え、北伐(魏討伐)を敢行させる。自身は成都から動かず、諸葛亮の活躍を見守った。だが234年、諸葛亮は志半ばで陣没。敵国・魏の国力はあまりに大きく、蜀は漢の復興という志を果たせずにいた。 その後、北伐は諸葛亮に代わって姜維(きょうい)が続行。「丞相でさえ無理だったのだ。ましてや姜維では・・・」という声も国内で高まっていくが、劉禅が北伐中止を命じることはなかった。魏の打倒こそが蜀漢の大義であったからだ。 ■即位から40年、ついに訪れた滅亡の足音 蜀軍と魏軍は勝ったり負けたり、一進一退の攻防を繰り返す。だが連年の軍事行動は小国の蜀を疲弊させ、国内に厭戦気分が広がっていく。 一方で、蜀の国内に大きな混乱は起きていない。諸葛亮の死から10年経ち、20年経ち、30年に迫ろうというなか、不思議と政権は安定していた。魏の側も表立った侵攻はできずにいた。要害に守られた蜀ならではの安定といえよう。 その平穏もついに破られる時が来る。263年、魏の大都督・司馬昭(しばしょう)が蜀討伐の軍を起こしたのだ。姜維が最前線の剣閣(けんかく)で奮戦、魏軍を釘づけにした。 ところが、物量の差はいかんともしがたい。鄧艾(とうがい)の別働隊が剣閣を迂回し、山岳地帯を突破。成都の目前に迫る。綿竹(めんちく)では諸葛亮の子、諸葛瞻(せん)まで討たれた。包囲された成都城に降伏勧告が届き、劉禅は決断を迫られる。 じつは、まだ最前線では落ちていない拠点も多かった。劉禅の子、劉諶(りゅうしん)は徹底抗戦を主張。いっぽう、ご意見番の譙周(しょうしゅう)は降伏論をとなえる。抗戦派・降伏派、まっぷたつに分かれるなか、劉禅は首を縦にふった。降伏、すなわち無血開城に応じたのである。蜀滅亡。劉禅は棺桶を背負って城外へ出た。 劉禅は、弟の劉永や家族とともに身柄を魏の都・洛陽へ移された。そこで8年間の余生を過ごし、271年に65歳の天寿を全う。後世に書かれた『漢晋春秋』によれば、洛陽の宴席で蜀の音楽が演奏された。旧臣らが涙するなか、意見を求められた劉禅は「楽しいです。蜀を思い出す事はありません」と言って、まわりを呆れさせたエピソードが紹介されている。 このような逸話から、劉禅は暗君と見なされた。それは蜀人気が定着した後世に書かれた小説『三国志演義』でさらに強調され、悪評に拍車がかかる。 ■劉備から受け継いでいた英雄的素養? 成都には劉備や諸葛亮らを祀る「武侯祠」(ぶこうし)という聖地があって、そこには蜀の功臣たちの像が多数並ぶ。劉備の塑像(そぞう)の右わきに劉諶の像が祀られているが、左側は何もない空間になっている。そこにあるべき劉禅の像がないのだ。 真偽は不明ながら、昔は劉禅の像があったが、置かれるたびに破壊されてしまうのだという。劉封(りゅうほう)、馬謖(ばしょく)、魏延(ぎえん)、麋芳(びほう)、傅士仁(ふしじん)といった、いわば「裏切者」たちの像もない。(ほか簡雍はいるのに糜竺はいない、などの問題はあるが)そこに祠をつくった人々や、参拝者の強い思いを感じる。 それはさておき、考えてみたい。宴で「蜀を思い出されますか?」を聞かれ、劉禅はどう答えるのがベストだったか。「蜀が恋しい」と心情を吐露すれば良かったのか。魏を牛耳った司馬一族なら、それを乱の芽として毒殺するぐらいやりかねない。その影響は劉禅本人だけでなく、旧臣や妻子にも及んだかもしれない。 かつて劉禅の父・劉備は曹操のもとに身を寄せていたとき、雷に驚いてわざと箸を落とし、曹操の警戒心を和らげたことがある。劉禅も、あるいはそういった部分を受け継いでいたと考えるのは飛躍しすぎか。 蜀は創業者・劉備が在位2年で世を去った不安定な国だった。しかし、劉禅が皇帝になって40年つづいたのだ。諸葛亮や董允(とういん)など有能な家臣のサポートがあったにせよ、一度も大規模といえるほどの反乱や謀反は起きなかった。 いっぽう同時代の魏は、司馬一族に簒奪(さんだつ)され45年で滅び、その間にも曹丕(そうひ)から曹奐(そうかん)まで4度も皇帝が代わった。呉は50年続いたが、4代目の孫晧(そんこう)が暴君と化し、16年の治世で滅びた。司馬一族の西晋も4代50年で終わっている。 漢の時代でみると、29人の皇帝のうち、最長が前漢の武帝54年、後漢の光武帝が32年、献帝31年がベスト3で、その大半は20年も持たずに政権を終えている。 もちろん治世が長く続いたから名君とはいえないし、劉禅が表立って積極的に何かをやったという話はない。宦官の黄皓(こうこう)を重用し、諫言に耳を貸さなくなったという悪評もあるにはある。こういう人には感情移入しづらいし、評価が難しいのは確かだ。 ともあれ、後世の民衆の多くは悲劇的な最期を遂げた人物に肩入れする。自害もせず余生を過ごした劉禅のような君主には冷たい。されど蜀の滅亡は彼ひとりの責任にあらず、時代の流れというほかはなかった。彼は死して「暗君」の誹りを受けつつ、贖罪(しょくざい)の日々をなお過ごしているのかもしれない。
上永哲矢