ただならぬ絶望に絶句…作家・木村友祐が、600ページを超える星野智幸の渾身の長編を語る(レビュー)
星野智幸氏の600ページを超える渾身の長編『ひとでなし』は、あたかも「人間」という動物種の本質を内側から暴露したかのような類のない問題作である。 ここで語られる時間は1976年から2022年までの、ほぼ半世紀。その間に起きた日本や海外の出来事を背景に鬼村樹(イツキ)という一人の人物の半生が語られるのだが、それがおのずと人間社会の構造を照らしだす作りになっている。 イツキの苦悩は小学生のときに始まる。加藤剛似の完璧な顔立ちをした男子の大人びた性の器官を見たとき、自身のそれが反応した。さらに、同じマンションの女子が着替えをしているところに出くわしたときにも反応してしまう。反応する基準が何なのか、イツキにはわからない。そこで自分を無理に「男」へと方向付けをしなかったイツキとしては、ともかく意思とは無関係に暴れだす器官から解放されたい思いのほうが募る。そこから、性にまつわることに距離を置くことになる。 小学校の担任だったセミ先生は、イツキのやり場のない心に「言葉という棲家を作ってあげる」ために架空日記を書くことを勧める。事実ではないけれど真実がまぎれている日記である。イツキは架空日記を書きながら危機的状況をやり過ごしていくのだが、この架空日記がシュールな短編のようで面白い。そして不穏である。イツキはやがて、日記に書いた人物たちとすれ違うことになるのだった。 イツキの苦悩の根は、自分の性的指向の所在にあるのではなく、つねに性と生殖がつきまとう人間であることに齟齬を感じているのだった。ヒトの形をしながらヒトになじめないナニモノカである。 だが、はみだすからこそ見えるものがある。小説はイツキの目と架空日記を通して、我々が自分の意思で動いているように見えて、じつは国家や組織の意向や影響力のある者の真似をし、反復しているだけという人間の姿に光を当てていく。 セミ先生や梢やみずき。心を許せる者たちとつながりながら、時を経てイツキは「この世の隙間で、自分が棲息できるごく小さなスポットをつなげながら、生きられる場所を少しずつ広げている」と思う。性的マイノリティの人々や「デカセギ」の外国人といった、安心できる居場所が希薄な人々に言葉で居場所を与えているこの作品自体がそう見える。常識を転覆させる視点により、性や家族や自己同一性、環境による洗脳といった、あらゆる強固な縛りからフッと解放してくれるのだ。 イツキがいる現実世界はこちら側の現実世界よりはマシな社会で、ある理想のイメージとともに本編は終わる。が、直後に置かれた架空日記のただならぬ絶望は何事か(新聞連載時のラストとは様相がちがう)。しばらく絶句したのち、思う。この悪夢の予言は、絶望の底から人間の正体を言葉で撃ち抜いて示したものなのだ。気づけ、止まれ、という祈りの叫びなのだと。 [レビュアー]木村友祐(作家) 協力:河出書房新社 河出書房新社 文藝 Book Bang編集部 新潮社
新潮社