戸田恵子さん「仕事が忙しくなってきた45歳で母の介護が加わり、目まぐるしい日々でした」|STORY
出会いと縁に導かれて
そのすぐ後に、三谷さんの映画監督デビュー作『ラジオの時間』のオファーも受けた戸田さん。連ドラ初出演以降、テレビドラマへの出演も続き、『ショムニ』シリーズ(98年~)のヒットで、すっかりお茶の間でも知られた存在に。 「まさかそんな事態になるとは思ってもいませんでしたよ。まずは、三谷さんの作品でもない次の連ドラにも呼んでいただいたことに、びっくりしました。もしかしたら、こういう世界でやっていくことになるのかなとか、やっていけるのかなとか、いろいろな不安が湧いてきて、三谷さんにも相談したんです。そしたら、『それはもう戸田さんの力で呼んだ仕事だから、戸田さんが決めればいいんじゃないですか』と言ってくださって。 今振り返ると、最初の連ドラで知り合った監督やプロデューさんが、その後も呼んでくださったことでご縁が広がって、高橋克実さんのように、いまだに仲良くしている人がたくさんいるんです。大きな決断でしたけど、とても大きなご縁をいただけたということは、やるべき仕事だったんだなと今は思っています。三谷さんには、その後もいろいろ相談させてもらいました。そのうち『もう僕に相談しないでください』って言われちゃいましたけど(笑)」
一気に増えた仕事と母の介護が重なる40代
けれどその一方で、戸田さんの生活は一変します。 「不規則極まりない生活になりました。舞台をベースに声優の仕事をしてきたところへ、一気にテレビや映画の仕事が入ってきて、しかもドラマの撮影は朝早いこともあれば、深夜になることもあるので。そこへ45歳の時に母が病気になって、介護が加わりました。とにかく忙しかったですね。忙しい中でも1度うちに帰ってご飯を作って、また出かけたりして。友達はみんな『介護施設のショートステイとか利用したら?』って言うんですけど、うちは母子家庭で母一人子一人でやってきたせいか、母はとにかく私じゃないとダメっていう人で。それはそれで、ありがたいことではありましたけど、今思うと友達にすっごく愚痴ってましたね(笑)。そんな状態で舞台もやったりしていたので、どうやって暮らしてたんだろう!?と思うくらい目まぐるしい40代でした」 そんな戸田さんの支えは“喜んでもらえる”ことだったといいます。 「母がテレビでドラマを見て、喜んでくれたんです。出歩けなくなった母にとって、我が子がテレビに出ているのを家で見られるというのは、すごく嬉しいことだったんでしょうね。朝ドラや連ドラに出ている時は、その時間を楽しみにしていました。『次は何に出るの?』なんて聞いてきたりして。 もう一つの支えは、やっぱり舞台かな。特に、三谷さんの一人芝居『なにわバタフライ』と、永井愛さんの骨太な社会派作品『歌わせたい男たち』に出合えたことは大きかったですね。大変でしたけど、その日のお客さんの拍手や評判に支えられて、達成感みたいなものがすごくあって。そうやって、映像の仕事を始めてからも舞台をやめなかったことは、自分の大きな支えになりました」