甲子園は戦争に染まった 昭和17年に出場・宮坂さん語る 長野県松本市
「それが当たり前だと思っていた。日本国中がそういう空気だった」。長野県松本市城東2の宮坂真一さん(99)は昭和17(1942)年8月、松本商業学校(現・松商学園高校)のマネジャーとして夏の甲子園大会に出場した。憧れの聖地は「お客さんでいっぱい」ではあったが、戦争に染まっていた。 昭和12年に始まった日中戦争は激化し、16年には太平洋戦争に突入した。17年の大会は、文部省と「大日本学徒体育振興会」が戦意高揚のために開催したとされる。夏の甲子園大会は16~20年は戦争で中止されており、大会史に記録されない「幻の甲子園」だ。 「勝って兜(かぶと)の緒を締めよ 戦い抜こう大東亜戦」。スコアボードに標語が掲げられていた。プレーヤーの呼称は「選手」ではなく「選士(せんし)」だった。「〇〇さん軍用公務です。すぐに家に戻ってください」。誰かに召集令状が届いたことを知らせる場内放送が流れ「周りから激励の拍手が起きた」。 試合前には「『球をよけてはならない』という指導が口頭であった」という。選手交代は禁止だった。主戦・清澤投手は試合前夜、足をくじいたが宮坂さん以外に隠して登板した。一宮中(愛知県)との初戦、初回の連続四球からの失点が響き、松商は2―7で敗れた。 「野球をやれて良かった。いつ兵隊に行ってもしょうがないと思った」と振り返る。松商卒業後、仙台の陸軍予備士官学校で教育を受け、福島の連隊で出撃を待っていた時に戦争が終わった。あと少し戦争が続いていたら「南方に行っていたと思う」と語る。 終戦直後から母校の野球部復活に奔走し、日本学生野球協会の役員も長年務めた。甲子園球場100年の節目となった今夏も積極的に関連報道の取材に応じ、野球への思いを語り続けた。「野球を発展させたい。若い人に存分に野球をやってもらいたい。そういう気持ちが今もあり過ぎるくらいある」と笑う。戦地に散った野球仲間が何人もいる。「あんな時代は二度と絶対来ちゃいけない」。静かで穏やかだった口調に力がこもった。
市民タイムス