孤独死は「かわいそう」? 死に方をジャッジせず、受け止める大切さ 僧侶の伝えたいこと
夫を自宅で看取った経験から出家し、僧侶・看護師として、現在は緩和ケア病棟でスピリチュアルケアを担当している玉置妙憂(たまおき・みょうゆう)さん。私たちは「いつお迎えがくるか分からない」という、分からなさやコントロールができないことに「怖さ」を感じる、と指摘します。作家や編集者たちと語り合いました。(構成/withnews編集部・水野梓) 【画像】「手足がもがれるようなもの」 マンガ「夜廻り猫」が描く家族の死 <SNS医療のカタチTV2024:2024年8月3,4日、有志の医師たちでつくる「SNS医療のカタチ」が配信したオンライン番組。この記事はそのセッションを記事化した2回目です>
死が迫ることで「生」が変化 怖さの根源
作家・浅生鴨さん(MC):SNS医療のカタチで「死」について宗教家に聞くシリーズ1回目から、編集者のたらればさんは、「死ぬのが怖い」とおっしゃってますよね。それは未だにそうですか。 編集者・たらればさん:もちろんです。そりゃあ「死」は怖いです。 毎回この話を鴨さんから振られて、すこし不思議に思うんですが、死はむしろ「怖い」というのがデフォルトだと思うんです。登壇される方は皆さんご立派な方が多くて、「いや自分は怖くないよ」とおっしゃるんですけど。 浅生さん:情報がなさ過ぎて、怖がりようがないんですよね。 水野梓・withnews編集長:わたしは「知らないから怖い」ですね。 自分がいなくなること自体を恐れたり、何かやり残したことがあると悔しくなったり、すごく恥ずかしい何かを処分し忘れたことに気づいたりとか…そして「いつ来るか分かんない」っていうのも怖いです。 浅生さん:でも「あれ処分し忘れた」とか思っても、死んじゃったら関係ないじゃないですか。 たらればさん:いやまあその気持ちも分からなくはないです。鴨さんとこの話をしに年に一度、来ているわけですし(苦笑)。 ただ、これはよく言われる話で、たとえば「あなたは来週死にます」ってなったら、今日の行動って変わるじゃないですか。 みんな1年後も10年後も生きているつもりで今日を生きている人が多いと思いますし、もちろんわたくしもそう思っているんですけど、そういう状況で「いやあと一週間です」と言われたら、今日の行動が変わる。 ということは、たぶん「死」が迫ることで(今日の)「生」が変わるわけですよね。その変化が多分「死の怖さ」の根源にあるんじゃないかと思っています。 玉置妙憂さん(僧侶・看護師):確かに、「死を考える」ということが、「今日生きることをよりよくする」っていうようなきれいにまとまるお話はたくさんあって、私も嫌いじゃないですけれども…。 でも私が思うに、今緩和ケア病棟というところにいて、余命があと数カ月と言われた方々とお話をする仕事をしていて、本当にたくさんの方のお話を聞いていて思うのは、「全く怖くない」って言う人はいません。 それは、「始末するものができていない」「行ったことのないところに行くから怖い」とかそういうことではなくて、もっと本能的なもので、私たちって所詮「生き物」ですから、この世に生を受けたときに、生き物としてより長く、1秒でも長くこの世にいるっていうことが何かプログラムされているような気がするんですね。 それができなくなる、絶えてしまうということは、もう本能的な怖さというか、埋め込まれた恐怖というか…。それはレベルの差はあれ、抱いていらっしゃるなって思います。 玉置さん:皆さんも、病などが身近になってだんだんと「死」がリアルになってきて、対岸の火事だと思っていたものが「火の粉が降ってきそうだぞ」「端っこが燃え始めたぞ」となった時に、初めて「死」を自分事として考えるはずですね。 どういう気持ちになるか、というのは、元気なうちは想像できないはずですね。それでいいんだと思うんですよね。なってみないと、分からない。 浅生さん:食べたことないものの味は、食べてみないと分からないってことですよね。