モーリーの提言。批判されがちな日本社会の「体質」が、いずれ環境対策の切り札になる?
『週刊プレイボーイ』で「挑発的ニッポン革命計画」を連載中の国際ジャーナリスト、モーリー・ロバートソンが、しばしば批判の対象となる日本の「同調圧力」や「平等教育」を生かすための新たな視点を考察する。 * * * 平等重視で画一的な日本の教育システムについては、出る杭は打たれる、個性を尊重しない、そのため強いリーダーシップが育たずイノベーションも生まれづらい......といった弊害がしばしば指摘されます。 確かにそのとおりなのでしょうが、今回はあえて、それによって培われた「文化」や人々の「行動原理」も捨てたものではないかもしれない、という視点で考察してみたいと思います。 よく比較対象とされるアメリカの教育は、個々人の才能をいかに伸ばすかを重視する傾向が強く、その結果としてリーダーシップやイノベーションの"一大産地"となっています。 ただし、一方ではその"副作用"も甚大です。必然的に広がる経済格差は教育機会や社会的移動の機会の格差を生み、それがまた経済格差を生む。機会に恵まれない人は"壁"に生涯苦しみ続ける。 アメリカの社会インフラが脆弱で、街の清潔さやサービス業の質に問題を抱えているのも、根本的な原因のひとつは「平等性を放棄した」教育システムに行き着くかもしれません。 日本ほど都市部から僻地まで、読み書きや計算能力、高度な作業を学習する能力がおしなべて高い国はおそらくありません。いうなれば「平均点」が極めて高い。 このことは、街やさまざまな施設の清掃が行き届いていること、サービス業に従事する人々の対応が極めて丁寧なこと、恐るべき確率で定刻どおりに公共交通機関が動いていることなどにも大きく貢献しているでしょう。 インバウンドの拡大で、これまで日本と接点のなかった先進国の平均的な所得層が訪日すると、日本のサービス、インフラ、おもてなしの「平均値の高さ」に驚きます。この広報効果は絶大ですが、そろそろこの「平均値の高さ」をしっかりと"換金"するときではないかとも思うのです。 日本の潔癖性や完璧主義は、実質賃金が下がりストレスが増す中でさえ、良くも悪くも国民が"世間の目"を気にし続けてきた結果ですから、我慢や同調圧力だけでいつまでも続くものではないでしょう。 そしてもうひとつ、日本社会の「平均値の高さ」は環境問題にも生かせるのではないかと私は考えています。 環境問題というと、現状では主に欧州やアメリカを中心に意識が高い発信がなされています。しかしこれらの国・地域では産業構造に"超格差"が組み込まれており、最終的な政策は富裕層や産業界の意向を無視できず、骨抜きになってしまいがちです。 また、環境規制を国際的な枠組みで実現しようとすると中国、インド、ロシア、多くの発展途上国およびアメリカの大手産業ロビーが「抵抗勢力」となるため、今後もせめぎ合いとなる宿命にあります。 やはり世界を変えていくには大きな枠組みだけでは足りず、市民社会の「体質」による下支え、押し上げが重要です。そう考えると、日本の「みんながやっているから私もやらなきゃ」という強迫観念にも似た潔癖体質は、行政とは違った次元で作用する「文化」として輸出可能なものになるかもしれません。 日頃の消費行動をチューニングしたり、ごみの分別の徹底やサプライチェーンをさかのぼる情報表示といった働きかけを、いわば"OSレベル"でインストール可能なポテンシャルを持っていると思うのです。