今でも『落合博満』を毛嫌いする新聞社OBは多い…この溝はなぜか?「うちの球団は」「お前の球団じゃねえ」そのやり取りの“意味”
敵はめっぽう多いが、支持するファンもいる。それが「落合博満」という人である。エピソードでつづるシリーズ。前回はガッツポーズ騒動について触れた。そこで今回はフロントとの亀裂を考察したい。 ◆落合博満さん、歌手としても活躍していた【写真】 ◇ 球団フロントが負けてガッツポーズをしたとのウワサが広まった。逆転優勝した2011年のことだ。前回も書いたように真相は不明だが、現場とフロントの間に深い溝があった。 ある球団幹部は「外国人ルートも大リーグ中心に戻し、主導権はわれわれが取り戻す」と筆者に言った。それを聞いて、改革へのやる気を感じた。本腰を入れるならそれもよし。個人的には任期満了での退任はいいタイミングだと思っていた。コーチ人事、ドラフト戦略を含め球団の長年の丸投げ体質に疑問があったからだ。 黄金時代を築いた落合監督はファンサービス不足、契約金の高さが問題視されていた。そこに切り込んだ新フロント。タイミングの悪さには同情を禁じ得ない。 今でも落合さんを毛嫌いする新聞社OBは多い。この溝はなぜか。まず、落合さんには親会社たる新聞社と契約した意識がなかった。現役時代、ドラ番キャップが愛情を込めてではあったが「うちの球団は」と言うと「お前の球団じゃねえ」と怒った。それは一貫した姿勢だった。 こんな話をすれば少しは理解の一助になるだろうか。名古屋では強い影響力があり、球団の親会社が発行する中日スポーツ。黙っていても情報が入り、選手も無条件でコメントしてくれると思っている人が会社の内外に少なからずいる。だが実際は他紙と同じでは手抜きと見られ、少し頑張ってイーブン、それ以上努力して初めて信用をされる。これは入社早々教えてもらったことで、金言をくれた故伊藤定一デスクには今も感謝している。 中でも落合さんの場合、まず自分から情報提供することはない。「何かありますか」のご用聞きスタイルの記者は苦労する。まして親会社風を吹かせたり、調子がいいだけだったり、不勉強だったりすれば露骨に冷たくされた。それでは選手、監督として失格というのならそうなのだろう。 1990年には年俸を巡り調停になった。球団と泥沼と言われたが、数年後に当時球団代表だった伊藤闊夫さんに聞くと「あれはね、こっちから持ちかけたんだ。こういう制度があるから、どっちの言い分が正しいかやってみようと。落合はみんなが思っているような男じゃないよ。自分から言わないだけで」と言った。 監督就任時も当時の球団社長は別の候補を推し、落合さんの名前は片隅にもなかった。もう一人の幹部は新聞社時代に「落合がドラ番にきつく当たっているらしいな、許さん」と筆者に怒り心頭で言ったが、球団に転籍すると態度は変わった。オーナーへの保身もあったかもしれないがコミュニケーションさえとれれば組みやすい相手だったのだと思う。 ただ、彼らは大事な職務を怠ったと思う。けがの公表だけがファンサービスではない。しっかり手段、目的を説明すれば協力を得られたはずだ。契約にしてもお互いが納得して結んだこと。そのツケが新フロントにまわった。 さて、球団はその後どうなったのか。収益は上がっているようだが成績はご承知の通り。代替わりしたフロントも応援歌ひとつで監督の顔色をうかがい、右往左往する始末。操縦かんはどこへ消えた。 ▼増田護(ますだ・まもる)1957年生まれ。愛知県出身。中日新聞社に入社後は中日スポーツ記者としてプロ野球は中日、広島を担当。そのほか大相撲、アマチュア野球を担当し、五輪は4大会取材。中日スポーツ報道部長、月刊ドラゴンズ編集長を務めた。このシリーズが中日スポーツでは最後のコラムとなる。
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