辰巳琢郎、大学卒業と同時に朝ドラに出演。きっかけは新聞の小さな記事「なぜか受かる気がしていた」
新聞を見て朝ドラのオーディションに
京大に現役で入学したものの、勉強よりも演劇にのめりこみ、7年間通うことになった辰巳さん。最後の2年間はアルバイトをして自分で授業料を払っていたという。 「本当はもう1年早く卒業するはずが、ちょっと厳しい先生がいて、必須だったラテン語だけ単位を落としてしまったので、しゃあないなと思って(笑)」 ――ご両親は何かおっしゃっていました? 「京大に入学した当初は結構喜んでいたけど、4年以上経って周囲から『いつ卒業するの?』とか『どこに就職?』って聞かれたら、だんだん肩身が狭くなってきたみたいで、いろいろ言われましたけどね。勝手な話です。 それで、最後の2年間ぐらいは自分で学費も払っていました。当時は授業料が安かったですからね。月8000円でした」 ――アルバイトは何を? 「普通に家庭教師をやったり塾の先生とか、夏休みは電気屋さんでエアコンの店頭販売。マネキンというやつです。結構売っていましたね。歩合制でエアコンメーカーから給与が出るんですよ。僕は松下住設。量販店に通って毎日最低限の日当はもらえるし、ナショナルのエアコンを1本売ったら1000円とか、扇風機は100円とか、そういう感じでした」 ――それで7年間通って卒業の年に朝ドラ『ロマンス』のオーディションに? 「そうです。そのときは役者になろうとはまったく考えてなかったですけどね。当時は『劇団そとばこまち』のプロデューサーとして名前が通っていましたから、いろんな劇場からプロデューサーにならないかというようなオファーがあったんですよ。まわりのみんなも、つみつくろう(当時の芸名)は多分そっちに行くんだろうな、芝居を作るほうに回るんだろうなと思ってたんじゃないでしょうか」 ――『ロマンス』のオーディションを受けたのは? 「新聞はよく読んでいましたから、文化面の小さな記事を見つけて。出会いでしょうね。僕たちの時代は、学生でもみんな新聞をとっていましたからね。今の新聞離れは、時代の流れで仕方がないのでしょうけど。 僕にとって大きな新聞の記事はふたつあるんです。最初は高校2年生のときにたまたま見つけた、『東京で若者に人気のつかこうへいさんが大阪公演します』という記事。10行ほどの本当にちっちゃい記事だったんだけど、それを見つけて友だちと見に行って、つかさんに出会った。 次がNHKのオーディション。『おしんの後、朝ドラは方向転換します。次回作は男が主役になります』という記事。 一応、NHKともつながりはありました。当時は学生演劇のリーダーとして知られていて、ラジオ番組とかワイドショーとか、いろんな番組に出たりしていたんですよ。それで連絡してみたら、もう締め切っていたんです。でもその方がかけあってくださりオーディションを受けられることになりました。どこに出会いがあるかわからないですね」 ――受かったと聞いたときはいかがでした? 「2次試験ぐらいから、なぜかずっと受かる気がしていました。最初の書類審査で1回面接をして、それから何人かに絞られて3次試験、4次試験と進んでいくんですけどね。京都から東京に通って、先に卒業してTBSに就職していた後輩のアパートに泊めてもらいました。それで結局主役は榎木(孝明)さんに決まりました。 彼は僕より2歳半年上なんです。先輩として腐れ縁って言うと何か変ですけど、すごく縁が深いんだろうなと思いますね。いろんなところで出会ったりしますし、同じ浅見光彦役を違う局でやっていたり、本当に不思議なご縁です」 ――いきなり朝ドラだとリハーサルはあるし、撮影も通常のドラマとはまた違って大変だったのでは? 「榎木さんが主役で僕は2番手でしたから、そこまでビチビチじゃなかったです。何もかもが物珍しくて、深く考えずにやっていたんでしょうね。 年齢も年齢ですし、東京に出てきて新しい現場、社会に入って。新入社員って、就職するってこんな感じなのかなと思っていました。社員食堂もあるし、ちょっと高かったけど、中目黒にマンションを借りて一人暮らしをはじめました」 ――大学の卒業式には? 「東京で撮影だったから出られなかったんですよね。それで、2、3カ月後に大阪に戻ったときに、大学に卒業証書をもらいに行きました。それはよく覚えています。 でもそれが残念で、翌年かその次の年、卒業式に遊びに行って劇団の後輩たちにアトリエにたくさんあった白いタキシードを着せて目立たせるという演出もしたんです。それが今の仮装卒業式の走りかもしれません」