宇多田ヒカルの母「藤圭子」の人生を変えた“運命の一夜”…健康ランドで歌う“中3の少女”を見出した「銀髪の紳士」の正体
中学生にして既に一家の稼ぎ頭
三郎が続ける。 「いつも妹は学校から帰ると白いシャツに紺のスカートに着替え、喜楽園で夕方6時からの宴会に“出演”するのです。余興のトップバッターは漫才師。次に親父が出て、自ら司会をしながら股旅ものの演歌を、続いておふくろが民謡を歌う。私の仕事はギターで伴奏を付けること。そして、トリを務めるのは決まって妹でした」 当時の圭子は、身長が150センチ、体重は40キロあるかないかの華奢な体つきだった。 「オマケにあのくりっとした目ですから、本当に子どもにしか見えない。そんな妹が、身体のどこを鳴らせば出てくるのかと思うような、低い声で歌い出すと、宴会場の雰囲気が一変するんです。お客さんはだいたい、二度見をしていましたね。まず誰が歌っているのかわからなくなる。で、キョロキョロして、声の主が前で歌っている女の子だとわかって、『えっあんな子どもが』とビックリするのです」 その頃の彼女が好んで歌っていたのは、北島三郎の「函館の女」や畠山みどりの「出世街道」。学校の帰り道にそれらを口ずさむと、近所の人が思わず聞き耳を立てる――。そんな天性の歌声を持つ圭子は、中学生にして、既に一家の稼ぎ頭の「プロの歌手」であった。
上座に座っている銀髪の紳士
「あの子は何だ?」 「上手ねえ……」 冒頭の“その日”も、15名ほどの団体客の前で「トリ」の圭子が歌い始めると、にぎやかだった会場の端々からため息が漏れた。そしてこれもいつもと同じく、2曲目になると、客も歌声に慣れる。再び会場には騒ぎ声が響き始める。 と、三郎の目に入ったのは、一番奥、上座に座っている、茶色いスーツの銀髪の紳士だった。 「その人だけは、黙って最後までじっと妹の声に耳を傾けていたのです。やがて余興が終わると、今度は親父を呼んで真剣に話をしている。私は、何か粗相でもあったのか、とドキドキしながらその様子を見ていました。10分くらいして戻ってきた親父に聞くと、一言『あの娘(こ)は歌手になれる』って言われたよと」 その紳士とは、八洲(やしま)秀章氏。戦後、「あざみの歌」で大ヒットを飛ばし、島倉千代子、倍賞千恵子らを育てた、大物作曲家であった。 もっとも一家は、北海道の片隅で日々の暮らしに追われながら生きてきた歴史しか持たない。 「家族の誰一人として、八洲先生のことを知りませんでした。だから、そんな話を聞いても半信半疑。酔った勢いで出まかせを言ったくらいに思っていたのです。ところが、数日後、再び喜楽園に先生が来て、『来月の岩見沢市のコンサートに出てみないか』と親父を誘うじゃないですか。この時はじめて、先生は本気なんだと思い始めました」