過酷な引き揚げ、暗い記憶 旧満州出身の丸山さん語る 長野県松本市
長野県松本市寿台6の丸山俊治(としはる)さん(83)は昭和16(1941)年、旧満州(現・中国東北部)で生まれ、5歳の時に日本に引き揚げた。港に向かう過酷な道中で、病気や栄養失調のために妹2人を亡くした。当時の記憶は断片的だが、死体の山を見たり、オオカミの声におびえたりした。今でも花火やサイレンの音を聞くと戦禍を思い出し、心が重くなる。 母親がロシア兵に銃剣を突きつけられた、落下傘部隊が降りてきた、女性が兵士に連れていかれた―。当時を振り返ると、こうした場面が浮かび上がる。帰国のための船には、たくさんの人が乗っていた。暑い中だった。 戦禍に見舞われる前、平穏な時期の思い出もある。1~2歳の頃だろうか、ホタルがいっぱい家の周りを飛んでいた。映画館に出掛け、映画を見た。 帰国後は、父母の郷里である松本市で新たな生活が始まった。鎌田小学校に通っていた時、世話になった先生の実家を訪れ、汁粉を味わった。食料難の時代、忘れがたい出来事になった。 丸山さんは20年ほど前から、ギターの弾き語りで音楽活動に取り組み、ライブやイベントに出演したり、地域の催しに参加したりしてきた。汁粉をごちそうになった思い出は「セピア色の安曇野」という曲にまとめ、10年余り前に制作したアルバム「70歳になったのだ」に収録した。 同じアルバムにある「満州の丘」は93歳まで生きた母親の歌だ。満州から苦労して引き揚げたことを歌詞にした。自分が覚えていること、母から聞いたことを基にした。 現在の世界を見渡して、ウクライナやパレスチナ自治区・ガザ地区など、各地の戦禍に心を痛める。「戦争の犠牲になるのは子供と女性。憲法第9条を変えて日本が戦争に突き進むのは反対」と話す。 自身の体験した戦争が、自作の歌詞になっている。弾き語りは、声高に訴えるのではなく、共感を大切にするスタイル。平和を願う意思が貫かれている。
市民タイムス