柔道五輪3連覇の野村、引退試合で3回戦負けも「幸せだった!」
野村は、五輪3連覇という柔道界どころかアジアの競技者として史上初の金字塔以外にも、多くの遺産を残した。この日の引退試合の中でも、その闘う姿にメッセージを込めた。 対戦した3選手は、そろって「生涯、この試合を忘れない」と言った。 1本勝ちをした23歳の椿は、「頭が真っ白になって何も覚えていない。組んだら力とセンスでやられると思っていたので、腰車を狙った。野村さんは、小学校の頃からの憧れの人。この試合は、これからも柔道を続けていく僕にとって宝です」と、その26秒を振り返った。 この日、ひとつ上の66キロ級で優勝したのは、北京五輪で野村から60キロ級の出場権を奪い、早々と野村が出場権争いから脱落したロンドン五輪でも代表となっていたライバルの平岡拓晃(30歳、了徳寺学園)だった。 「僕をここまで引っ張ってくれたのは野村さんのおかげ。野村さんがいたからこそ、野村さんを倒すために努力を続け2度の五輪に出ることができた。僕は現役としてまだリオ五輪の可能性にかけますが、おそらく野村さんは、サッカー界のカズさんのようなレジェンドとして影響力を持っていくでしょう。僕も東京五輪の頃は、指導者になっています。現役時代に話は、してもらえなかったけれど、機会があれば、野村さんに今後は、色々と技について話を聞かせてもらいたい」 野村は、これまで同じ階級の人間とは、あえて距離をおいてきた。それが勝負の世界で生きる野村の流儀だった。だが今後は指導者として、次なる五輪選手を育てていくことが使命のひとつだろう。実際、これまでも公式、非公式を合わせて何度か全柔連から全日本チームの軽量級コーチとしての就任を打診されている。 五輪3連覇の頃は、天才肌の感性の人だった野村は、40歳まで現役を続けたことで、感性の柔道ではない、「なぜ?」を追求する柔道理論を構築した。「これまではプロセスより結果だと考えていた。でも、プロセスの意義を40歳まで続けることでわかるようになった」。それが40歳まで続けたゆえに野村が得た新たな世界観であり、彼が、今後、人に伝えていくことのできる財産である。 試合後、観客席に挨拶に訪れた野村は、大きな拍手と花束で見送られた。 そして、しみじみと、繰り返したのである。 「本当に幸せでした」と。 それは、応援してくれた人々だけではなく、野村の柔道に対する感謝の気持ちに聞こえた。 (文責・本郷陽一/論スポ、スポーツタイムズ通信社)