柔道五輪3連覇の野村、引退試合で3回戦負けも「幸せだった!」
試合後の囲み会見で、NHKの月間キャスターの仕事もかねて会見に顔を出した太田は、泣きながら質問をしていた。 「どうしても、怪我を負いながらもその年まで頑張れたのですか?」と。 野村は、「俺が泣く前に、おまえがなんで先に泣いてんねん」と突っ込んだ。 「3連覇も単なる結果。それを過ぎたら、もっとうまくなりたい、もっと強くなりたいという気持ちが生まれる。負ければ悔しいし、もっとうまくなりたいと思うしね。その連続だった」と答え、そして「まだ気持ちは燃え尽きていない」とも言った。 「柔道への思いが燃え尽きることは永遠にないんです。ただ競技者としての結果を求めるための努力の積み重ねができなくなった。心が折れたわけではないが、体の限界だった。これだけは、どうしようもない。本心では、まだまだ(柔道を)やりたいんです」 40歳となる肉体は、もう限界を超えていた。 「試合に出れるかどうかもわからない。このまま終わってしまうかもしれない」 野村が沈痛な面持ちで漏らしたのは7月だった。 2008年の北京五輪の選考会直後に右膝を手術、一昨年には、右肩の腱を断裂して修復手術、昨年は左膝を手術した。古傷は、長年の練習によって擦り切れて、もう手術を施しても、生活ができるレベルにまで戻せても、競技者としての活動が不能になるほどに悪化していた。これ以上詳しくは、引退会見で明らかにするらしいので書かないが、医師も含めた周囲は、「怪我をした箇所への負担の少ない軽めの練習にしておいて試合に間に合わせればどうか」と勧めた。 だが、野村は、そういう調整方法を断固拒否した。今できる最大の準備をして試合に臨むのが、野村の美学だった。過去2年は、いずれも稽古で激しい追い込みを行い、試合直前に負傷した。今回も同じ轍を踏む可能性もあった。またアクシンデントに襲われ、心に決めた引退試合の畳に上がれないまま、引退するというリスクはあった。それでも野村は、身を削るようなきつい治療と平行しながら、暑い8月上旬に東京の大学での出稽古を自らに科した。ギリギリの戦いを乗り越え、2年ぶりの畳にあがったのである。 父親の基次さんは、1回戦で1本背負いを決めた瞬間に泣いていた。 「3つの金メダル以上に価値のある試合だった。忠宏らしい背負いが最後に出た。ぱっと華を咲かせた。悔いはないんじゃないか」 観客席にかけつけた北島康介も泣いていた。 「男・野村を見れた気がする。怪我があったのに無理をしていた裏の顔と過程を知っているから、今日は涙してしまった」 野村は言い訳が嫌いである。この日も、試合後に怪我のことを聞かれても、「どうでしょう」と、ごまかして答えなかった。だが、近くで、引退試合の畳に上がるまでの苦闘の様子を見てきた家族や北島らにしてみれば、涙が溢れて仕方なかったのである。