徳川家康vs豊臣秀頼‼ 大阪冬の陣の顛末とは⁉
ついに激突した徳川家康と豊臣家。どのような戦いだったのか? ■豊臣家壊滅を目指す大坂の陣勃発── 豊臣家が家康とのパイプ役を果たしていた片桐且元(かたぎりかつもと)の粛清をはかったことで、幕府は武力で屈伏させる決意を固めるが、豊臣家は且元が交渉のため駿府に赴いた8月の段階から合戦の準備に入っていた。 大勢の浪人を召し抱えて戦備を整えたが、豊臣家の招きに応じた大名クラスの浪人には土佐の国主だった長宗我部盛親、上田城の戦いで徳川勢に煮え湯を呑ませた真田信繁たちもいた。9月に入ると籠城戦に必要な兵糧米を大量に買い集めるが、大坂城に馳せ参じる大名が一人もいなかったのは想定外だったろう。 11月15日、家康は二条城、秀忠は伏見城を出陣し、大坂へ向かった。幕府からの陣触れに応じて動員された諸大名の軍勢も大坂に続々と着陣し、同月末には大坂城包囲網が完成する。既に19日から本格的な戦闘がはじまっていた(大坂冬の陣)。 12月4日、前田利常や松平忠直たちが出丸真田丸を攻撃するが、失敗に終わる。総じて大坂城の守りは鉄壁で、攻城戦は苦戦を強いられた。 ところが、12月に入ると豊臣家の方から和睦を打診してくる。大名が一人も豊臣家に馳せ参じなかったた め、籠城戦に不安を感じたのだろう。 一方、幕府軍の指揮を執る家康は力攻めを避け、砲撃を加え続ける。16日には淀殿の居所にまで砲弾が落ちたことで、強硬派の淀殿も和睦を望むようになったようだ。 19日、次の3つの条件のもと和睦が成立する。大坂城の二の丸と三の丸の堀を埋めること。豊臣方の織田有楽(おだうらく)と大野治長(おおのはるなが)が人質を出すこと。秀頼の家臣と浪人衆は処罰しないことの3つである。なお、幕府軍が豊臣方の制止を振り切って二の丸の堀を埋めたという俗説は事実ではない。豊臣家も受け入れていたことだった。 幕府軍による堀の埋め立ては順調に進み、翌20年(1615)正月19日にはほぼ完了。既に家康は駿府への帰途に就いており、2月14日に駿府城に入った。秀忠も堀の埋め立てが完了したのを見届けて、正月28日には京都を出立し、江戸に向かった。 監修・文/安藤優一郎 (『歴史人』2023年2月号「徳川家康の真実」より)
歴史人編集部