矢沢永吉との確執報道に「きっと後悔も」 ジョニー大倉さんが病床で語ったキャロルへの思い
キャロルは死ぬまで愛し続けた存在
ジョニー大倉は、日本のロックのオリジネイターでもありました。スタンダードなロックンロール・ナンバーに日本語の歌詞を乗せて英語と日本語のちゃんぽんで歌う先駆者でもあります。今回没後10年のタイミングで幻の名盤となっていた『ポップン・ロール・コレクション』も単なる訳詞ではなく、カッコいい日本語に代えて歌っていて、その発想や言葉を操る能力はキャロル時代から、ずば抜けていたと思います。 そして、ロックンローラーのスタイルでもあるリーゼントに革ジャン、ブーツというスタイルをキャロルに持ち込んだのもジョニーです。矢沢さんもビートルズが好きでしたが、親父はビートルズがデビューする前の、革ジャンにリーゼントの格好が大好きだったみたいで、そこからの発想だと聞きました。 さらに、ソロシンガーとして矢沢さんに続いて日本武道館に立った2人目のソロシンガーがジョニーです。今回、その時の武道館公演と日比谷野外音楽堂のライブを収めたライブ盤『ロックン・ロール・ドキュメント’77』も復刻しました。 このように矢沢さんとの“ご縁”はいろいろな形であったと思いますが、一方でメディアを通して、たびたび矢沢さんとジョニーの確執が取りざたされてきました。 親父は、病床で矢沢さんとのことについてもいろいろな話をしてくれました。改めて感じたことは、やっぱり親父はずっと矢沢さんを慕っていたということでした。偉大な兄に負けまいと意地を張ってきた破天荒な弟・ジョニー大倉との兄弟ゲンカだったのかなって。マスコミは常に2人の関係を面白おかしく扱ってきましたけど、実際はそうじゃなかったんだと分かりました。 きっと矢沢さんも手の付けられない弟のヤンチャぶりを見て「このバカ者が!」って思っているんだろうなって想像していました。親父は亡くなる前まで矢沢さんのことを気にしていて「永ちゃんに会いたい」と何度も口にしていました。そして「キャロルをもう1回やりたい」ということも。ジョニーにとってキャロルは死ぬまで愛し続けた存在でした。きっと後悔もあったんだと思います。 父親としての大倉洋一は、家族と一緒にいる時が一番好きな、最後まで家族を愛した男でした。一方でジョニー大倉は人間離れした才能と行動力の持ち主で、一歩たりとも近付けなかった……。僕にとっては“神のような存在”でした。 来年、2025年はキャロルが解散して50年を迎えます。同時に矢沢さんも、ジョニーもソロ活動50年にあたる年です。僕も50代になり、芸能活動35周年に突入しました。まだまだ親孝行はできていませんけど、これからもさまざまな活動を通してジョニー大倉が生きていた証を次の世代に伝えていきたいと思います。 □ジョニー大倉 本名・大倉洋一。1952年9月3日神奈川県川崎市出身。72年、ロックバンド、キャロルのメンバーとしてデビュー。ボーカル・ギター、作詞を担当。75年、キャロル解散。ソロミュージシャン活動と並行して、俳優活動を開始。81年、映画『遠雷』で日本アカデミー賞優秀助演男優賞受賞し、映画、ドラマなど多数出演。プライベートでは87年10月、富山市内のホテル7階から転落し、全治6か月の重傷を負った。2009年、悪性リンパ腫を乗り越え、都内ライブハウスなどで精力的にライブ活動を実施。13年5月、肺がんにより余命2週間の宣告を受けるも治療に専念し、4月13日に銀座タクトにて奇跡の復活ライブを開催した。けがや病と闘ってきたが、14年11月19日、肺炎により62歳で逝去。 □ケニー大倉 本名・大倉賢一。1972年10月23日、神奈川県川崎市出身。ジョニー大倉の長男。父が柴田恭平と共演した映画『チ・ン・ピ・ラ』に感銘を受け俳優を志す。89年、映画『嵐の中のイチゴたち』で準主役を演じ俳優デビュー。この作品で親子で初共演を果たす。以降、ドラマ、映画など多数出演。90年代はCMナレーターとして大手企業CMをはじめ、年間約120本のCMナレーションを担当。ミュージシャンとして2018年4月13日に初のソロシングル『泣かないでベイビー』を発売し、本格的ソロ活動を開始した。
福嶋剛