阪神・淡路大震災を伝えた俳優、妹尾和夫さん。19年の思い
「震災を伝えていくのが私の責任や思います」―。阪神・淡路大震災が発生した19年前、テレビのレポーターとして現場を巡り、被災地の様子を伝えた俳優の妹尾和夫さん(62)。後に被災者の証言や防災情報を伝えるラジオ番組のパーソナリティを12年務めるなど、長きにわたり震災のことを伝え続け、今でもその時知り合った被災者との交流を持っているという。そんな妹尾さんに19年の思いを聞いた。 [写真]阪神淡路大震災から19年 “遺構”が伝える震災被害
突然のテレビレポーター依頼
19年前の1月17日午前5時46分、妹尾さんは大阪市大正区にあった自宅で大きな揺れに見舞われた。「前夜は芝居の稽古を終え寝たのが午前3時。トラックがぶつかったと思い2度寝したけど、周囲のざわつきで目覚め、動いたら割れたガラスで足を切りました」。そして、テレビを見てただごとではないと気づいた。 自らが主宰する劇団の団員と連絡を取ろうとするも電話が混線でつながらない。大阪市内の劇団事務所でテレビをみて被災状況を見守っていた。そんな時、突然電話が鳴り、大阪の毎日放送(MBS)から「レポーターとして被災地を取材してほしい」との依頼が来た。「大阪なのでレポーターといえば芸人さんが多いが、それでは辛かったと思う。そこで僕に依頼が来たと思います」と当時を振り返る。
被災状況に言葉が出ず、辛い取材現場
タクシーで大阪市北区を16時に出発し、神戸市中央区の「神戸三宮センター街」に着いたのは23時すぎ。暗闇の国道は通れない場所が多いうえ大渋滞。三宮にやっとの思いで到着した時、崩壊したビルなどを目の当たりにし、がく然とした。 最初に取材したのは、商店街の自警団。徹夜の見回りを翌朝6時まで密着し取材したものを大阪へ持ち帰り、当時夕方に放送されていたテレビ番組「宵待5」で紹介された。その仕事を終え、プロデューサーから「レポーターを続けてほしい」と言われ承諾。これが長きにわたる取材のはじまりだった。 取材クルーと一緒に被災地へ行き実状を取材。だが、被災者の苦悩を目の当たりにし言葉が出なかった。「ガレキに向かって手を合わすおばあちゃんに『どうされました』と聞くと『うちのお父ちゃんやねんけどな』と返され、そこで会話は止まる。それをカメラが撮る日が続きました」。後にその取材は「妹尾和夫・街を歩く」というコーナーとして月曜から金曜日に放送されることになった。最初は被害の大きかった神戸市中央区や長田区、東灘区などを回った。倒壊した建物や被災者、避難所などにカメラを向けると「人の不幸を食い物にして」などと怒鳴られることも多く、胸の痛い取材の日々が続いた。 だが1か月ほどたった時だった。宝塚市清荒神を訪れた時に街の女性が「ちょっと妹尾さん」と声をかけてきた。「また怒られるんかなぁ」と不安がよぎったが「もう遅いねん。神戸だけちゃうねん、待っとったんやで」と話してきたという。「僕はこの瞬間に涙が出そうになりました。皆さん見てくれてはったんです」 以来、行く先々で歓迎してくれる人も増え、被災者への取材交渉もディレクターに代わり妹尾さんが買って出た。「実はこの時、胆石を患い入院も勧められていましたが、途中で投げ出したくないと主治医と相談しながら続けました」。そして同番組終了までの約1年にわたり、被災地を回り続けた。