時代に翻弄されながら誰も描けない表現貫く ボッティチェリの後期・晩年
1490年代に入ると、フィレンツェは政治的、社会的に大きな変動の時期を迎えます。1492年に、ボッティチェリの最大のパトロンであるロレンツォ・イル・マニーフィコが世を去りました。家督を継いだロレンツォの息子ピエロは、政治的判断を誤り、シャルル8世の率いるフランス軍のフィレンツェ侵入を許したため、メディチ家は1494年に追放されました。めまぐるしい政治的変転に合わせるように、ボッティチェリの描く主題や表現も変化してゆきます。
古代の画家への挑戦
ボッティチェリ後期の代表作《アペレスの誹謗(ひぼう)》(ウフィツィ美術館)は、古代ギリシアの画家アペレスが描いた現存しない絵画の復元を試みた作品です。アペレスの絵画がどのようなものであったのかについては、ギリシアの作家ルキアノスが記述を残しています。絵画作品の記述をもとに絵画を描くという、ルネサンスらしい知的な遊びは、古代の画家=アペレスに匹敵する当代の画家=ボッティチェリの優れた技量を示すばかりでなく、彼自身の古代世界に関する教養を披露する機会ともなりました。 画中で展開する穏やかならぬ場面は、アペレスが友人の画家から受けた誹謗とそれによる悲劇を表わしています。描かれた人々は特定の人物ではなく、物語に関わる抽象的な概念を表わす擬人像です。松明を手にした青い衣服の女性は「誹謗」、髪をつかまれ祈るように手を合わせる人物は「無実」、玉座に座す大きな耳の男性は「不正」とされます。ボッティチェリは複雑に絡み合うこれらの人物の視線や身振りを巧みに関連づけながら、横方向に流れるような構図を作り、場面をよりドラマティックに描き出しました。背景をなす壮麗な建築には、歴史や神話にもとづく無数の浮彫や彫刻が執拗なほど細やかに描き込まれています。物語画に長けたボッティチェリの才能が光る後期の傑作です。
サヴォナローラの時代
メディチ家の追放後、政治的に不安定な状況にあったフィレンツェにドメニコ会修道士のジローラモ・サヴォナローラがあらわれ、極端な禁欲主義を説く扇動的な説教をもって、一時的にフィレンツェを支配しました。ボッティチェリがサヴォナローラにどれほど影響を受けたかについては、はっきりとしたことはわかっていません。 しかしながら、ボッティチェリの兄シモーネがサヴォナローラの熱心な信者であったこと、ボッティチェリが後に火刑に処せられるサヴォナローラ裁判の判事の一人と接触した記録が残っていること、また何より、サヴォナローラの時代と重なる1490年代の半ば頃から、ボッティチェリの作風が大きく変化していったことを考えると、ボッティチェリもまた同時代のフィレンツェの人々と同じように、修道士の教えに感化されるところがあったと考えられます。