五街道の起点・日本橋に息づく江戸情緒 過去と現代が交差する歴史の道を歩く!
ヒップホップグループ「RHYMESTER(ライムスター)」の兄・Mummy-Dと、「MELLOW YELLOW(メローイエロー)」の弟・KOHEI JAPAN。2人は共に音楽シーンで活躍する一方で、大の歴史好き。今回は、歴史と音楽を愛する2人が東京・日本橋を歴史探検します。 ■歴史の旧道・古道・旧街道をゆく! (by Mummy-D) さて、2024年度初の『遠い目症候群(シンドローム)』、昨年は「裏大河紀行」をテーマに徳川家康の足跡を(なんとなく)辿って来ましたが、今年からは心機一転「旧道・古道・旧街道」をテーマに、全国各地で遠い目をしていくこととなりました。全国数多の旧道あれどやはりそのスタートには「五街道の起点」たる日本橋さんぽがふさわしいであろう!ということで、我々坂間ブラザーズは冬の雨散らつく日本橋のたもとに集合したのでした。2月某日、先週までの春のような陽気とは打って変わって、なんとも寒ぅい一日でございました。 ■江戸から東京へ 激動の時代の中心地・日本橋 (by Mummy-D) テーマが変わったとはいえ、ここは神君家康公によって築かれた、百万都市江戸八百八町の広がりの、まさしく出発点。ある意味昨年のテーマの巨大な回収と言っても過言ではありませぬ。銀座側、日本橋観光案内所を出発したわたくしたち、最初に目にしたのは橋の親柱の銘板「にほんばし」の揮毫(きごう)でした。渡った三越側には「日本橋」と漢字で。なんとも端正で上品な筆致ですが、これは最後の将軍、徳川慶喜公の手になるもの。言われてみれば、なるほど慶喜公っぽい字であるような気すらしてきます。 首都高に掲げられた横書きのそれはおそらく、縦書きのそれをレイアウトし直したものでしょう。開府のスタート地点である日本橋の揮毫を大政奉還の主役であり、敗軍の将である慶喜公がしているというのは、なんとも皮肉な話ですが、1911年(明治44年)に現在の石橋に架け替えるとき、当時の東京市長・尾崎行雄が「無血開城により首都東京を火の海から守ったのは慶喜公の英断のおかげなのであーる」として揮毫を賜ったとのこと。近世から近代、江戸から東京への架け橋も、慶喜公が担当していたんですねえ……スタート5分で早くも遠い目。 ちなみに現在「歴史リアル謎解きゲーム『謎の城』in 日本橋」という体験型ゲームが行われており、我々も小冊子片手に謎解きに挑戦してみたのですが、これがこの手のイベントらしからぬガチな難しさ!(笑)相当やりがいあります。幕末、日本橋を遊び倒したい方は、是非。 次に目に入って来たのは欄干の麒麟像。非常に精緻で重厚な印象。装飾を監修したのは旧横浜正金銀行(神奈川県立歴史博物館)や旧横浜新港埠頭倉庫(赤レンガ倉庫)なども手がけた妻木頼黄(つまきよりなか)。あのコンドルに学び、辰野金吾の後輩筋にあたる明治期を代表するスゴイ建築家です。西洋的な石造りのアーチ橋にアジア的な想像上の動物を配するあたり、和洋折衷の狙いが見て取れます。しかも全ての道路の起点から全国へ飛び立つというイメージのもと、翼まで生えさせられちゃって、麒麟というよりほとんどドラゴン、龍が如く!(笑) 実は開通当初は石橋の古臭さや折衷的な意匠の中途半端さなどが批判の的になっていたらしいですが、皇居二重橋にも通ずるクラシカルな雰囲気はいかにも明治期らしく、五街道の起点にふさわしい風格を感じさせます。江戸期の木造太鼓橋を復活させるのは観光メインならいざ知らず、現役の幹線道路である日本橋じゃ不可能だもんね。錦帯橋じゃないんだから。 ■全国へとつながる道路の起点 (by Mummy-D) 北側に橋を渡ると、そこには元標広場が。日本国道路元標複製とある。そーかあレプリカかあ、なんつってあんまし気にしていなかったのであるが、別に失われたわけではなく、モノホンは今も日本橋のど真ん中で日々行き交うクルマのタイヤに削られつつ磨かれつつ、堂々と存在しているのであった。しかしそれを直接見ようとすると軒並み「轢かれちゃう」のでw、レプリカが展示してある次第。そーかあ、そーゆうことだったのね。ちなみにこちらは当時の総理大臣、佐藤栄作さんの揮毫らしいです。昔の偉い人たちは皆達筆だったのだなあ、と。傍には大理石の東日本方面、西日本方面への里程標もあって、脚半に手甲をつけた江戸期の旅人の気分が偲ばれます。遠い目。。。 ここから北に日光街道、宇都宮で枝分かれして東北を目指す奥州街道、板橋、高崎から山間部を縫って京へと向かう中山道、内堀をぐるっと回って半蔵門より甲府を目指し、下諏訪でそれに合流する甲州街道、さらにここから南へ、箱根を越えひたすら太平洋岸を西へと向かう、大動脈東海道と、時代を超越したジャーニーは始まるのであったが、とりあえず我々はまだ1ミリも動いていない(笑)。どころか雨足が強くなり、「日本橋の上で雨やどりすんべ!」ということになったのだが…ん? 雨宿りできちゃうのおかしくね? そう、そこなんです。日の本の名を冠したわが国が誇るその橋の上空を、なんと首都高速道路が遮っているのだった。ぶっちゃけ、こんな無粋な話はないよね(涙)。 高度経済成長期に敗戦後復興の威信を賭けて開催された東京オリンピック(1964年)、そのインフラ整備のため突貫工事で進められた首都高速道路建設計画。用地買収の困難を避けるため川(堀)の上を通さざるを得なかったのは当時としては理解できるけど、流石に日本橋の上はまずいだろ、日本橋の上は! 浮世絵にも描かれたその景観が失われることは、街としての「日本橋」の魅力を失うことにも繋がり、さらに1980年代のバブル経済が崩壊したことに伴う東急日本橋店の撤退(1998年)なども相次ぎ街は衰退……。人々はかつての繁栄を取り戻すべく、「日本橋再生計画」に取り組むことになって行きます。 最終的には首都高の地下化によって「日本橋の空」を取り戻したいということだけど、一体いつになるんだろう?見てみたいなあ…(目下2040年の完成を目指して首都高地下化工事はすでにスタートしているらしいです。メッチャ楽しみ!)。 今やビルが乱立し、上には首都高が走るというやや窮屈な場所になってしまった日本橋。「日本橋の空」が復活したら、また遠い目をしたいものです。 そんな過渡期の日本橋に、我々永遠の過渡期っちゃん、坂間兄弟は佇みて、気の早いことに今宵の宴に想いを馳せるのであった。「刺身かなんかで一献行きてえなあ…」橋の向こう河岸を見ればこれがなんとも御誂え向きに、日本橋魚市場発祥の碑が! 竜宮城を彷彿とさせる乙姫像に手を合わせつつ、以下KOHEIにバトンタッチ。ちゃんと書けよな!