「許せなかった」……日本代表ユニホームに「日の丸復活」を直訴したラモス瑠偉 その「意外な理由」
サッカー日本代表が8大会連続出場を目指して’26年W杯北中米大会のアジア2次予選が開幕した。11月16日、森保ジャパンは初戦のミャンマー代表には5-0と完勝して好スタートを切った。 W杯優勝国のドイツに連勝しても親善試合を組むのに大苦戦 森保ジャパンにオファーが殺到しない理由 代表のユニホームは「青」と「白」を基調とする伝統があるが、たった1度だけ上下ともに真っ赤なユニホームを採用した時期がある。その時、それまで必ず左胸につけられていた「日の丸」が外されて、代わりに日本サッカー協会(JFA)のエンブレム「八咫烏(ヤタガラス)」がつけられた。それは違う、と叫んだ男がいた。ドーハの悲劇で日本代表の「10番」を背負ったラモス瑠偉である。 「日本代表の赤いユニホームはとっても渋かったよ、ブラジルやアルゼンチンも国旗の色を代表のユニホームに入れている。日本代表は赤でもいいと思ったよ。だって、赤は『日の丸』の色だからね」 ラモス氏は’89年に日本へ帰化、その翌年4月に初めてA代表に招集された。ユニホームカラーは上下とも赤。国を背負ってサッカーで戦う、そんな意欲満々で代表の合宿に向かったが、すぐに違和感でいっぱいになった。 「ユニホームのセンスは良かったけれど、代表合宿なのに、選抜チームのノリできている選手がいた。これじゃまるで学校の遠足じゃないかという感覚だった。冗談じゃないよ!って、『そんな日本代表なら私はもう二度と来ません!』と(当時の日本代表)横山(謙三監督)さんに訴えたほどだよ」 ラモス氏にとって初代表となるユニホームからこれまで左胸についていた「日の丸」が初めて外された。JFAは「これまでにない斬新なものを作ろう」と色は赤、左胸にはあえてシンボルマークの「八咫烏」をつけた。この赤のユニホームを採用した横山ジャパン(1988年~91年)はラモス氏を軸にしたチーム編成で’91年のキリンカップで初優勝こそしたが、当時の日本代表は世界はもちろんアジアでも勝てなかった。 それどころか「欧州では赤いユニホームを着た日本代表の選手を韓国や中国の代表と間違える国が増えてしまった」(JFA幹部)という理由で、日本代表で赤いユニホームが2度採用されることはなくなった。そういう経緯は理解した上で、それでもラモス氏にとっては許せないことがあった。それは、ユニフォームの色が変わった後も、日本代表のユニホームから「日の丸」が外されたことだった。ラモス氏が続ける。 「ドーハの時も日の丸のためと思ったから頑張れたんだ。36歳でチーム最年長だった私が20代の連中の練習にたえてこられたのも日の丸があったからだった」 そんなラモス氏と日の丸の出会いは来日するはるか前だった。 「ブラジルで16か17歳の時だった。映画に行ったときにスクリーンに映る日の丸を初めて見た。タイトルも覚えていないんだけど『なんだろう、この思い』という良いイメージが体に残った。私は当時、日本がどこにあるかなんてことも、全く知らなかった。所属していたチームの監督からは、その国にはサッカーがあるのか?ということも言われたから。不思議だよね、そんな私が日本に来たんだから。 初めて来日した日のことも忘れられない。空港に降り立つと、その日は多くの日本の人たちがあちこちで『日の丸』を振っていた。後からその理由を読売クラブの関係者に聞くと、その日は’77年4月29日、当時の昭和天皇陛下のお誕生日だった。日の丸を持って歩いている方の姿、私はその光景を見ながら東京・稲城市のよみうりランドに向かったんだ」 ブラジルの独立記念日(9月7日)でも見られない光景で新鮮だった。何より、当時19歳だったラモス氏がもともと持っていた、「先人を敬う気持ち」が刺激された。 日本サッカーリーグの読売クラブ(現J2・東京V)にプロサッカー選手として入団、当時はブラジル人助っ人だったラモス氏は、足繁く日本代表戦を観戦に訪れていた。 「駒沢、西が丘、そして国立競技場にも見に行きました。あの頃は木村和司の時代だった。ユニホームの左胸に『日の丸』をつけた和司は、とにかくかっこよかったよ」