10歳でミャンマーから日本へ、乗り越えた言葉の壁 33歳俳優の転機になったスピルバーグ作品「ウソでしょ?マジかって」
語った33年間のターニングポイント
俳優で歌手の森崎ウィン(33)が活動開始から20年目を迎えた。無名だった若手の頃、スピルバーグ監督作品『レディ・プレイヤー1』で主要キャストに大抜てきされ、一躍注目された。あれから7年。昨年はNHK大河ドラマ『どうする家康』で徳川秀忠役を演じるなどし、さらに知名度を上げた。7月に都内で開催のミュージカルエンターテイメントショー『ミュージカルは最強です!2024 ~お笑いチャンプと頂上決戦~ Presented by WOWOWプラス』ではコントに挑戦。充実期の森崎が、経験してきた「ターニングポイント」をENCOUNTに語った。(構成=福嶋剛) 【写真】森崎ウィンのインタビュー別カット 8月で34歳になります。20代と比べると30代は面白いです。馬鹿みたいに飲んでいた酒の量もどんどん減り、話す内容や立ち位置も変わってきました。「昔より大人になったかな」と思うところもある一方で、「まだまだ子どもだな」と思うところも多くあります。そんな全部をひっくるめて、「今、またターニングポイントに差し掛かっているのかな」って感じています。 最初のターニングポイントは生まれ育ったミャンマーから日本にやって来た小学校4年生の時でした。僕が幼い頃からずっと両親が日本で働いていたおかげで、ミャンマーでの生活はとても裕福でした。僕はおばあちゃん子で苦労知らずのサッカー少年でしたね。 10歳になり、両親がいる日本に来ました。裕福だった生活も一変して、日本で苦労している親を初めて見た時、「僕は特別な存在じゃない」って気付きました。初めて雪を見たり、今まで見たことのない景色や文化の違いにもギャップを感じました。驚いたのはお店や行楽地で行列を作って並ぶ文化です。ミャンマーは暑い国なので並ぶことがほとんどなく、小学生の自分には「何でわざわざみんな並ぶんだろう」と感じる不思議な光景でした。 一番大変だったのは言葉の壁です。最初の頃は日本語がしゃべれなかったので、よくいじめられました。でも、僕の親はとても厳しくて、「いじめに負けるな」「学校に行きなさい」と言われ、我慢しながら学校に通いました。そしたら1年くらい経った時、いじめていた友だちが僕を守ってくれるようになったんです。きっかけはサッカーでした。「言葉が通じ合えなくても、スポーツを通して仲良くなれるんだ」と知りました。僕は国語の授業の時だけ、別室で日本語を学んでいたんですが、先生方にも支えてもらい、早く言葉を覚えることができました。そもそも日本に来なければ今の活動はなかった訳で、日本語を覚えたことが今の僕につながっているのは間違いありません。 そして、僕がこの世界に入るきっかけになった中学2年の頃が、次のターニングポイントです。当時はサッカーに熱中していたので、芸能の世界は全く興味がありませんでした。ところが、スカウトされたことをきっかけに週に1度レッスンに通うことになりました。好奇心旺盛だったので、「演技ってこうやってやるんだ」とか、学ぶこと全てから刺激をもらっていました。高校2年の時には、初めてドラマのオーディションに受かりました。撮影現場でお芝居をした時に本当に楽しくて、「この世界でやっていけるかも」って思うようになりました。今もあの頃の衝動のままで、芝居をやるたびに刺激をもらっている感じがしています。 当時のマネジャーさんに「歌える?」と聞かれて少し歌ってみたら、そこから歌とダンスのレッスンも始まりました。僕が好きなダンスボーカルグループのメンバーも一緒に通っていて、彼らのライブを見に行くたびに、お客さんと一緒に盛り上がっていて、「かっこいいな」と思っていました。まさか僕がそのグループに入るとは思っていませんでしたが、人前で歌ってみて、芝居とは違う楽しさがありました。そんな風にチャンスと向き合っていくうちに「これからも芝居と歌をやっていきたい」と思うようになりました。自分のやりたいことが見つかったわけですが、仕事の量も少なかったので「何とか食らいついていこう」「いただいた仕事を一生懸命やっていく」の一心でした。そんな10代だったと思います。 20代のターニングポイントは、やっぱりスティーヴン・スピルバーグ監督の映画『レディ・プレイヤー1』に出演した時になります。オーディションは2回あって、1回目はビデオ審査でした。それを通過してロサンゼルスに行き、スピルバーグ監督にお会いしました。そこで渡された台本を基にお芝居をして帰って来たんですが、8か月間、何の連絡もなかったんです。それでマネジャーとは「ダメかな」と言っていたんですが、突然、連絡があり、「最終選考に残っている」と聞かされました。すぐに健康状態のチェックを終えると「合格」と言われ、「ウソでしょ? マジか」って。ビックリするというより放心状態でしたね(笑)。 スピルバーグ監督は意外と細かくて、首の動き1つにも、ものすごくこだわりました。一方で、提案も受け入れてくださいました。「僕は日本人のキャラクターだから、この場面では日本のお辞儀を入れてみるのはどうですか」と伝えたら、監督は「いいね」と。僕は「ここではアイデアを出したもん勝ちだ」と学びました。初めての海外作品を経験してから、日本でも映画『蜜蜂と遠雷』に出演して、ようやく役者としてのオファーをいただけるようになりました。