爆弾抱え戦車に飛び込む訓練も生き延びた……長野で戦争体験聞く集い
東京大空襲「この時点で戦争をやめていれば……」
昭和20年3月の東京大空襲を経験した武井敏雄さん(87)は「東京中が燃えていた。電車は全部止まり、亀戸方面に歩いて行ったら遺体の山があった。人々が盛り上がるように山になって亡くなっているんです。自転車では通れなかった。防火用水や川も同じで遺体で埋まっていた。兵隊がやってきて遺体を収容していた」。 こんな状況を目の当たりにして武井さんは「完全に日本は負けたと思った。この時点で戦争をやめていれば、沖縄などを含めどれだけ多くの人が助かったことか」と話しました。 中学生で海軍の工場に動員された石坂宏さん(85)は、14歳以上の子どもたちが交代で夜間工場勤務を命じられた。一方で満蒙開拓団で中国に渡った近所の若者がいまだに消息不明。「ほかに逃避行で集団自決したという話も聞いている」と、戦争に巻き込まれた子どもたちの実態を語りました。
胃潰瘍に苦しむ父「戦争動員で医者がおらず」
「戦時中、胃潰瘍に苦しむ父親のため医師を探したが戦争に動員されてどこにもいなかった」と話したのは原山貞子さん(89)。「お産婆さん(助産師)に頼んだら何とかなるかもしれない」とやっとのこと探して来たら、「せっけんを用意しなさい。胃の中の物を出すために使う」との指示。当時はせっけんもろくになく、出産する女性に配給されていたせっけんを借りてお産婆さんが浣(かん)腸し、「父親の苦しみが和らいだ」。 極端に物がない戦時中。「戦死した兵士の遺骨を村で迎える際も、学校長や村長は靴を履いておらず、わらぞうりでした」と、今でも記憶に残る原山さん。そして家族も兄がシベリアに抑留され「その間老いていく両親の姿を見るのがつらかった」と語りました。
---------------------------------- ■高越良一(たかごし・りょういち) 信濃毎日新聞記者・編集者、長野市民新聞編集者からライター。この間地元TVで解説