船成金の「金はなんぼでも出す、助けてくれ」の真意とは 内田信也(上)
手当たり次第に船舶をチャーターし、巨富をつかむ
そのころ、門司、横浜間の石炭運賃は1トン当たり38銭にまで暴落していた。内田はそこに目を付けて、早速、八馬汽船の第八多聞丸(4500トン)を月額4200円でチャーターする。とたんに船賃が急上昇を始める。のちに“虎大尽”の異名を持つ山本唯三郎が月額8000円で借りたいとの申し入れに応じた。1年契約で貸すとざっと5万円のもうけである。 以来、手当たり次第に船舶をチャーターし、巨富をつかむ。大正4年には船成金の雄、勝田銀次郎から4500トンの大正丸を16万円で買い受ける。買船、チャーターの2本建てで突っ走り、業績は飛躍的に向上し、大正5年には内田汽船の配当が600%という破天荒な記録を樹立する。翌6年には資本金を50万円から一気に1000万円へと20倍増資をやってのける。 発足時の資本金2万円からみると500倍に膨らむ。この間わずか3年かかっていない。大正バブル景気の象徴、海運市場の大荒のさまが読み取れる。内田の胸中にはこのバカ景気は遠からず弾ける-その時どう逃げるかを常に考えながら突っ走っていた。所有船は10隻に増強、横浜には内田造船所を創設する一方、内田商事を設け、貿易業にも乗り出す。
「金はなんぼでも出す」の真意とは?
日本経済史に詳しい梅津和雄大阪外語大教授は内田について書いている。 「彼については神戸の須磨に敷地5000坪に及ぶ通称“須磨御殿”を建て、延べ500畳にも達した屋敷に政治家、実業家を接待した成金ぶりが伝えられる。また第1次大戦後恐慌の前年、大正8年7月に彼が東海道線急行列車の転覆事件で列車の下敷きとなり、『神戸の内田だ。金はいくらでも出す。助けてくれ』と叫んだ伝説は成金精神の象徴としてよく引用されている」(成金時代) この「金はなんぼでも出す」の1件について地元イハラギ時事社編『風雲児内田信也』は違った見方をしている。「金はなんぼでも出す」はマスコミのおもしろくせんがための作り話で、この時内田は老母と一緒で、母を気遣うあまりの絶叫で、武士道を心得ていた内田は微動だにしなかった、と内田をかばう。 また内田自身は「母や兄の生き死にの関頭に直面し、肉親としてこれを助けたい一念でいっぱいな時、いかなる犠牲をも甘んじて受けようというのは当然である」と語っている。 内田は「なんぼでも出す」発言を全面否定はしていない。そのことに内田の懐の深さが感じられる。 【連載】投資家の美学<市場経済研究所・代表取締役 鍋島高明(なべしま・たかはる)> 内田信也( うちだ のぶや 1880-1971 )の横顔 1880(明治13)年茨城県行方郡麻生町で8人兄弟の末っ子として生まれた。父寛は麻生藩士であったが、明治維新後は官吏を務めた。1985(同18)年一家は東京に出て、信也は芝の正則中学に入る。4年生の時、教師と激論、退学、麻布中学に転校する。1899(同32)年東京高商(一橋大学)に進み、卒業すると三井物産に入社、傭船主任として海運事業に従事、1918(大正7)年退社に独立して内田汽船を創設する。資本金2万円は三井物産の退職金、兄窪田四郎(富士製紙社長、東京米穀商事取引所理事長などを歴任)からの借金でまかなった、折からの海運ブームに乗り、たちどころに巨利を占めると、1924(大正13)年政友会から代議士となり、1934(昭和9)年には鉄道大臣、1944(同19)年には農商務大臣、戦後派再び農林大臣に就任。