「四天王」以上の名将? 30年以上も「呉」を守った孫権の恩人は、なぜ目立たないのか。
三国志という歴史物語の一角をなす「呉」は、孫家が三代かけて創業した国家だ。その建国と繁栄は、当然ながら数多くの家臣たちの奮闘によるところが大きい。 最大の功労者を挙げるとすれば誰か。有名どころでは周瑜(しゅうゆ)や陸遜(りくそん)だろう。2代目の孫策(そんさく)を助けた太史慈(たいしじ)、3代目の孫権(そんけん)の命を何度も救った周泰(しゅうたい)など、細かく挙げればきりがない。 名将・名臣ぞろいの面子の名が挙がるなか、忘れられがちな功臣がいる。朱治(しゅち/156~224)である。彼は前回のコラムで紹介した「四天王 ※」の程普(ていふ)、黄蓋(こうがい)、韓当(かんとう)ら以上に長く働き、非常に息の長い活躍をした。にもかかわらず、よほどの三国志ファン以外にはまず注目されることはない。(※四天王=孫堅挙兵以来の功臣4名の便宜上の呼び名) なぜなら、小説『三国志演義』では朱治はわずか2ヵ所しか登場しないからだ。ほぼチョイ役である。彼の活躍を知るには、やはり正史『三国志』の呉志を紐解くしかない。 当初、揚州の地方役人だった朱治の人生を大きく変えたのが、反乱軍の鎮圧で各地を転戦していた孫堅(そんけん)との出会いだ。このとき、朱治も反乱鎮圧に駆り出されて孫堅の軍に合流したらしい。ふたりは同世代(当時30代前半)で、ウマが合ったのかもしれない。大陸各地を転戦し、189年には董卓(とうたく)討伐軍にも加わり、洛陽まで攻めのぼっている。 なお、すでにこの時期から朱治は孫堅の配下というより、別動隊の指揮官扱いである。黄蓋・程普・韓当・祖茂(そぼう)といった孫堅のもとで叩き上げた将とは、そもそも格がちがった。 これは朱家が呉の四姓(張・顧・陸・朱)に数えられる名門(朱治の家は別系統の説もある)で、彼が旗揚げ前から揚州太守の従事(補佐官)だったこととも関係していよう。いずれにせよ新興の孫家などより格上であり、むしろ朱治がいるおかげで、孫堅は諸侯からさらに一目おかれた可能性があるのだ。 ■幼い孫策、孫権を見捨てず面倒をみる その後、孫堅はあえなく戦死したが、朱治は孫家を見捨てなかった。19歳だった遺児・孫策の面倒を物心両面で支えつつ、一度は袁術(えんじゅつ)の保護下に入れるが、ほどなく袁術を見限って独立させる。その筋書きを描いたのは、正史を見る限り朱治その人とみられる。 「江東(揚州)平定の名目で兵を出し、袁術のもとを離れなさい。あなたの家族は、私がひきとって預かるから」 この一言がなければ孫策の成功も、その後に興る呉の国もなかったかもしれない。言葉どおり、朱治は孫策の家族らを引きとり、危害を加えられないよう自分の手元で養った。そのなかには、まだ幼き孫権の姿もあった。揚州従事であった朱治の名声・経済力の大きさあってのこと。孫家の人々は彼に頭があがらなかったであろう。 そして孫策が江東平定をするあいだ、朱治も軍を率いて呉郡(ごぐん)を攻め取った。すると、そのまま呉郡の役所に入って太守に就任。以後30年以上、その地位を保ち続けるのである。もちろん孫策が死んで孫権に代替わりしても同様だった。 呉郡とは孫堅の出身地で「呉」の地名の元ともなる大切な土地。それだけで、この地を守り続けることの重要性がわかるだろう。ちなみに孫権自身の拠点は、柴桑にあり、のち建業(南京)に移っているが、朱治が守る呉郡よりもだいぶ前線にある。呉郡が安泰だからこそ、魏や蜀と争える位置に拠点を置けたのである。 それを誰よりも理解していたのは、もちろん3代目・孫権だった。孫権は朱治が目通りにやってくると、いつもみずから出迎えた。朱治に従う役人たちも、孫権と個人的な面会が許されるVIP待遇。あまりに優遇しすぎたか、朱治が統治する呉郡の役所は常に来客で一杯、使者は数百人にもなった。 これではどっちが国のトップかわからない。孫権も不満を覚え、諸葛瑾(しょかつきん)に愚痴をこぼしたこともあったという(「諸葛瑾伝」)。虞翻(ぐほん)に酒を強要したり、張昭の家に火をつけて燃やそうとしたり、やりたい放題だった暴君・孫権も、朱治にだけは面と向かって何もいえなかったのだからすごい。 朱治は張昭のように孫権に強く諫言することもなく、生活は質素で服装も馬車も必要なものだけしか使わなかった。付け入るスキがなく、孫権も終生頭が上がらなかったか。西暦224年、朱治は69歳で静かに生涯を終えた。孫堅とともに挙兵してから35年。誰より息の長い活躍であった。 ■「呉」の建国が遅れたのは朱治がいたから? 周知のとおり、孫権が曹丕から「呉王」に封じられたのは西暦222年。すでに曹丕や劉備が帝位について「魏」や「蜀」が建国されてからのこと。呉の皇帝を称するのは、さらに8年も遅く229年である。 ちなみに222年は朱治が呉郡を離れ、隠居して故郷へ帰った年だ。その1年半後に彼は亡くなる。朱治が健在な限り、孫権の支配力も呉郡に及ばず軽々しく「呉王」を名乗れなかったのか。このとき、まだ孫権は魏の臣下だったからという事情もあるが、そんなことも考えてしまうくらいに朱治の存在と影響力は強かったように感じる。 30年、呉郡を守る……いわば縁の下の力持ちだったためか、冒頭に述べたとおり小説『三国志演義』では影が薄く、いつの間にか忘れ去られる。息子(養子)に朱然(しゅぜん)という名将がいるが、彼も「演義」ではパッとしない。親子そろって「三国志演義被害者の会」代表メンバーである。 またゲームの世界でも、最近の作品でこそ相応の評価をされているが初期は凡将だった(参考までに初代『三國志』/コーエーテクモゲームス では知力42、武力45)。しかし、わかる人にはわかる。斯様に地味で、渋みすら感じる存在だからこそ伝え甲斐があるし、愛情の注ぎ甲斐があるともいえるのではないだろうか。
上永哲矢