乗客数ワースト2位「田園調布駅」なぜ急行止まる? “東急象徴の町”の意外な歴史
東急沿線を代表する住宅地といえば、大田区にある田園調布だ。高級住宅地の代名詞にもなっているが、田園調布駅を利用する人は意外に少ない。 【衝撃写真……!】美しすぎる……! 背中の開いた真っ赤なドレスに身を包んだ長澤まさみ 平均乗降人員は1日あたり1万8507人と、東横線の急行停車駅の中では、最下位の多摩川駅に次ぐワースト2位になっている(東急電鉄2022年度乗降人員より)。渋谷から東横線の急行に乗ると、自由が丘から田園調布・多摩川と3駅連続で停まる上に、乗客数がワースト2位、1 位の駅が続くのだ。 なのになぜ、急行が停まり続けるほど大切にされているのか? ◆歴史的にも大事にされてきた“田園調布” 「東横線を作った東京横浜電鉄は、東京(渋谷)と横浜を結ぶことが目的で、たまたま調布村が経由地になっていただけです。結果的に東横線も田園調布を経由することになりますが、東京横浜電鉄にとって田園調布は本来、重みはありません」 田園調布の歴史を解説するのは『地図で読み解く東急沿線』の著者で、横浜市史資料室研究員の岡田展氏。 田園調布には、東横線より先にいまの目黒線を建設した会社、ひいては渋沢栄一が目をつけていた。 「渋沢栄一が創設した田園都市株式会社が“理想的な住宅の適地”として選んだのが、武蔵野台地の南端で、当時の荏原郡一帯です。まず洗足住宅地、次に多摩川台住宅地の開発に着手し、他に大岡山や奥沢などの住宅地を手がけました。多摩川台住宅地というのが、のちの田園調布になります。これら住宅地の足として、田園都市会社によって設立されたのが目黒蒲田電鉄(以下、日浦電鉄)です」(岡田氏) 1923(大正11)年3月11日に、目蒲電鉄が目黒駅から丸子駅(現在の東急多摩川線沼部駅)に至る路線を開業させたときに田園調布駅も産声を上げる。当時の駅名は、調布村という地名をとって調布駅。目蒲電鉄は、ただの鉄道会社ではなく渋沢財閥の1社として、沿線を開発する使命を持っていた。すなわち鉄道ではなく土地が先にあって、渋沢らが着目したのが田園調布一帯の自然だった。 「面積が他よりも広大だったため、同心円状と放射状の街路を整備するなど、田園都市会社が最も力を入れて開発しました。ここに設けた駅が田園調布駅で、多摩川台の住宅地も『田園調布』の名が定着しました」(岡田氏) 現在でも田園調布駅を降りると、西側にはヨーロッパのような放射状の道路と住宅地が名残をとどめている。都心の喧噪を離れ、渋沢の狙い通りに田園調布の開発はスタートした。 東横線でも田園都市線でもなく、目蒲電鉄が作った目黒から蒲田への電車が東急の「保守本流」だったのでもある。 ◆東横線を作ったのは買収された子会社だった ところが、目蒲電鉄だけでは目黒と蒲田を結ぶだけで、現在の東急のホームグラウンドたる渋谷は通らない。 東横線は前述のように、目蒲電鉄ではなく東京横浜電鉄が建設する。東横線が田園調布に乗り入れるのは1927(昭和2)年まで待つ必要があるが、着工の前にすでに東京横浜電鉄は目蒲電鉄の傘下に入っていた。 統合の過程に一役買ったのが東急グループの事実上の創業者である五島慶太である。もともと武蔵電気鉄道という社名だった同社の重役だった五島が、渋沢の斡旋で目蒲電鉄の取締役に就任して、両社の統合劇も実現させた。 「統合で、結果的に東京横浜電鉄も田園調布を経由することになります。親会社の目蒲線との乗換ができ、最も重要な住宅地である田園調布を通らない選択肢はなかったでしょう」(岡田氏) 渋谷と横浜への路線も開業し、田園調布は東急屈指の住宅地の地位を不動のものとする。 東横線は1932(昭和7)年に渋谷から桜木町までの全線が開業し、1935(昭和10)年に急行運転が始まる。このころの停車駅は、『東京横浜電鉄沿革史』(1943年刊行)によると碑文谷(現在の学芸大学)・自由が丘・田園調布・新丸子・日吉・綱島温泉(現・綱島)・妙蓮寺・反町・横浜となっている。こんな歴史的経緯から、田園調布を当然外すわけにはいかない。 1939(昭和14)年10月に目蒲電鉄と東京横浜電鉄が正式に合併。目蒲電鉄が東京横浜電鉄を吸収する形を取ったが、新しい社名は東京横浜電鉄となって「目蒲」ではなく「東横」をフラッグシップ路線にする印象を強くした。 戦後も東急沿線の住宅地は広がっていき、輸送力を上げるために平成になると東横線と目蒲線に改革がなされる。 田園調布駅は地下駅に改造。3両や4両編成の電車が走り、東京都内だけのローカル線状態が長く続いていた目蒲線を、2000(平成12)年8月6日に多摩川駅で運転系統を分割。目黒~武蔵小杉間の目黒線と、蒲田~多摩川間の東急多摩川線に分離した。目黒線はその後、東京メトロ南北線・都営三田線・埼玉高速鉄道、さらに相鉄とも直通運転を行う路線に成長する。 田園調布からも目黒線を経由して乗り換えなしで南北線や三田線に行けるようになったが、翌年2001年3月、急行よりも速い種別として東横線に特急が登場すると、特急は田園調布を通過してしまう。 創業のころと比べると地位が低下したような田園調布だが、東急グループが田園都市会社から数えて創業100周年の昨年、その記念式典が行われたのは渋谷でも二子玉川でもなく田園調布駅。目蒲線を受け継いだ目黒線の100周年記念ラッピング電車では、田園調布の100年の歴史を車内広告で展示していた。 やはり令和になっても、この地は東急にとって特別なのだ。 取材・文・PHOTO:大宮 高史
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