落合博満43歳「野村さんはかわいそう」発言…消えた“落合ヤクルト入団”の真相「ヤクルトは車すら用意しなかった」43歳に6億円破格オファー、日本ハム落合が誕生するまで
「野村さんはかわいそうよ」
土壇場で、その落合をさらわれたヤクルトの野村監督は、「見事な敗北でございます」と争奪戦の完敗を認めた。結局、巨人に切られたのではなく、自分から巨人を出たと自負していたオレ流に、“リストラの星”や“男気”といった情に訴えた説得は響かなかった。 一方で、落合は野村監督に対して、球団フロントと連携が取れていないと同情的な見方もしていた。日本ハム入団後に「週刊文春」の人気コーナー「阿川佐和子のこの人に会いたい」に呼ばれ、阿川に日本ハム入団の理由を聞かれると、「俺を欲しくないところへは行かないですよ」と答えている。 「(ヤクルトは)下手だったのよ。言っていいのかどうか分かんないけどさ、ヤクルトの内部で野村さんを辞めさせたい人が多いんだ。俺が入って優勝したら困る人がいるんだよ。(中略)でも、野村さんは必死よ。可哀相よ、ほんとに」(週刊文春1997年3月27日号) 圧倒的な実績と強烈な個性は、ときにシンパだけでなく、敵も作る。あえてそっけない言葉足らずの受け答えをしながら、実は照れ屋で本心をなかなか明かさない。組織になじまず、誤解や衝突を生むが、それすらも己の力にして成り上がってきた非エリートの野球人生。やはり落合と野村はある意味、似た者同士だったのだ。 そして、マスコミを介して舌戦を繰り広げた信子夫人からは、日本ハム入団が決まった夜、「せっかく声をかけていただいたのにすみません。ご恩は一生忘れません」と丁重な連絡があったことを、野村は日本テレビ『おしゃれカンケイ』で明かしている。 共闘は幻に終わったが、確かにあの冬、男たちの野球人生は一瞬交差した。1997年3月11日、神宮球場でのオープン戦。試合前の練習中に日本ハムの背番号3が、ヤクルトの指揮官のもとへ挨拶に向かった。 オレ流と月見草――。春の神宮球場、「来年は(評論家になって)お前を取材に行くわ」とボヤく野村監督の肩に手を置き、楽しそうに笑みを浮かべる落合がそこにいた。 こうして巨人軍と決別した「日本ハムの落合博満」は、11年ぶりにパ・リーグを新たなる戦いの場に選んだ。43歳の四番打者として、プロ19年目のシーズンが始まりを告げるのである。 <前編《「落合はヤクルト」発言》編から続く>
(「ぶら野球」中溝康隆 = 文)
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