浜松餃子なんて無い? 餃子日本一の裏側(下)──ブーム喜べない餃子店
ブランド化が呼んだ競争
「既存のギョウザ屋さんのキャパがいっぱいなのは分かっていた」。ギョウザのPRの先頭に立つ浜松餃子学会の発起人の1人は、匿名を条件に口を開いた。この男性は、学会発足当時は中心メンバーだったが、8年ほど前にメンバーを外れ、学会とは縁が切れている。 客の急増に対応しきれない店が出ることも予測できたはずだが、男性の思惑は別にあったという。「大量リストラ時代になることが見えていたから、みんなが起業しやすいように浜松餃子のブランドを作ったんです。僕は何でも先が読めちゃうんで」。 独自調査を元に浜松が日本一ギョウザを食べる町だと宣言し、宇都宮のギョウザ関係者らから強い反発を招いたことも、「アンチがいた方が盛り上がる」と胸を張る。「だって水面下では、宇都宮のギョウザ店の人から感謝されたんですよ。『宇都宮がいつまでも安泰なんてことはない。危機感を持たせてくれて、ありがとう』って」。 競争は浜松でも生まれた。ギョウザ店の新規開業や、系列店の拡大に乗り出す会社が現れた。一方で、長続きしないで閉店する店も目立った。
生き残った家族3人の店
浜松市東区篠ケ瀬の住宅地にぽつりと立つ、ギョウザの持ち帰り専門店「餃子の店かず」も、50メートルほどの場所にライバルのギョウザ専門店ができた。店主の妻村瀬静音さん(67)は不安を抱いた。店主一夫さん(67)が、質の悪いキャベツを市場に突き返すまでして頑固に味にこだわり、常連客もいるけれど、夫婦2人でこぢんまりと続けてきた店だ。黄色い外壁の店舗は狭く、今は使われていないカウンター席が5席ほどあるだけで、駐車場も3台だけ。「これから厳しくなるかなと感じました」と振り返った。 それなのに5年前、トラック運転手として会社勤めしていた長男光孝さん(43)が「皆がおいしいと言ってくれるうちの味を一代で終わらせたくない」と言って仕事を辞め、店に入った。静音さんは当時、「息子に給料を払えるか心配だった。勤め人の方が苦労は少ない」と思った。 それから3年間、光孝さんは無給だった。実家暮らしで寝食には困らないが、一夫さんはギョウザ作りに手出しをさせようとしない。光孝さんは自力で売り上げを伸ばす方法を考え、仕事を生み出した。ギョウザを焼く動画を載せたホームページを作り、冷凍ギョウザの販売や地方発送も提案した。味の低下を心配する一夫さんと激しく口論したが、「1度試して、だめなら止めよう」と粘り強く説得。冷凍を求めるお客さんは相次ぎ、一夫さんも今では、「近ごろの冷凍は、そんなに味が落ちない」と納得する。 光孝さんは会社勤めのとき、上司に改善を提案することはなかったという。けれど、ギョウザ店では、父親とどれだけけんかしても、改善になると信じる試みを訴え続けた。光孝さんは声を潜めて、思いを語った。「仕事中は家族とは考えないようにしているけれど、やっぱり親には楽をさせたい」。売り上げは、次第に伸びていった。 2年前、一夫さんがヘルニアの一種になり、日帰り手術をした。仕込みをする手には力が入らない。代役を務めたのが光孝さんだ。はっきり頼まれてはいないけれど、あうんの呼吸で、聖域だったギョウザ作りに足を踏み入れた。光孝さんがキャベツを切って塩もみし、一夫さんと2人で味を確かめる。それから毎日、二人三脚でギョウザ作りを続けている。間もなく、光孝さんは給料を受け取るようになった。無給時代の苦労も、光孝さんは笑って振り返る。「厳しさを経験したから、ギョウザへのこだわりは強くなった」。近くにできたライバル店は、いつの間にか閉店していた。