JR下地駅の新駅舎、横を名鉄の列車が通過!? 共用区間の歴史を探る
その他、スポーツ大手のミズノと共同開発した野球の金属バットにも、新幹線のアルミ素材が使用されたという。相鉄新横浜線・東急新横浜線の新横浜駅に設置された待合室の内装用建材、JR東海・大建工業・相模原市が共同開発した内装用ルーバーの芯材にも「東海道新幹線再生アルミ」が使われている。建材だけでなく、タイバー(ネクタイピン)やアイスクリームスプーンといった日用品にも生まれ変わった。こうした採用例があるものの、駅舎の建材として「東海道新幹線再生アルミ」を使用する例は、下地駅が初めてだという。 現在、下地駅に停車する列車は、平日朝7時台(下り)の5本が最も多いが、それ以外は基本的に1時間あたり2~3本。朝夕は豊川駅以北へ向かう普通列車も一部停車するが、基本的には豊橋~豊川間の普通列車が下地駅に停車する。豊橋~飯田間で1日2往復運転される特急「伊那路」も、もちろん通過していく。
これだけなら他の路線でも見られそうな運行形態だが、下地駅ではJR飯田線の列車だけでなく、なぜか名鉄の列車も通過する。ただし、下地駅はJR東海の所属であるため、名鉄の列車は一切停車しない。豊川を挟んで隣の船町駅も同様である。なぜこのような光景が日常化したのだろうか。 ■豊川鉄道・愛知電鉄時代の名残、いまも共用区間として残る ざっくり答えを言うと、歴史的な経緯によって現在の運行形態になった。豊橋駅自体の開業は1888(明治21)年9月1日。現在の東海道本線が大府駅から東へ延伸し、浜松駅まで開業した中に豊橋駅があった。線路を共用する飯田線と名古屋本線のうち、先に開業したのは飯田線。1897(明治30)年、豊川稲荷(妙厳寺)への参詣客輸送を目的に、私鉄の豊川鉄道が豊橋~豊川間を開通させた。その後、豊川鉄道は1900(明治33)年までに、現在の大海駅までの区間を全通させている。
現在の名古屋本線(豊橋~名鉄岐阜間)のうち、東側の区間となる豊橋~神宮前間は愛知電気鉄道という私鉄が開通させた。1917(大正6)年3月に神宮前~笠寺(現・本笠寺)間、同年5月に笠寺~有松裏(現・有松)間、1923(大正12)年4月に有松裏~新知立(1968年廃止、廃止時の名称は東知立駅)間、同年6月に新知立~西岡崎(現・岡崎公園前)間、同年8月に西岡崎~東岡崎間と順々に開通させたが、豊橋駅へ至るには豊川を渡らなければならず、ここが難関だった。 建設費を削減しつつ、東海道本線への接続も果たすには、すでに開業していた豊川鉄道と連携を図る必要があった。しかし当初、豊川鉄道の敏腕経営者であった倉田藤四郎がそれを受け入れなかった。愛知電気鉄道も、当時の社長・藍川清成により、現在の御油駅から豊川駅へと至るルートを立案し、関係者間に交渉を図る。浜名湖北岸から豊橋市北部を経由して浜松~豊橋間を結ぶ、遠三鉄道計画との接続も考慮したとされる。なお、遠三鉄道計画は実現しなかった。 藍川のプランが実現すれば、名古屋方面から豊川稲荷への参拝客を輸送する役目が奪われてしまう。倉田はこれを陽動作戦だと見抜いた一方で、豊橋市と財界が大きく動揺した。当時は鉄道ブームの真っ只中。豊橋市と財界は豊橋を中心に経済・交通網の拡大を考えていたため、藍川の計画を阻止しなければならなかったという。