鴻巣友季子の文学潮流(第15回) 話法の魔術で読ませる「約束」と「みどりいせき」
現在時制で軽やかな印象
ところで、ちょっと技法的な話。こんなに題材・内容の重い小説が、なぜ軽やかに読めてしまうのか。一つは、会話体にカギカッコ(原文なら引用符)を使用せず、セリフと地の文を融通無碍に地続きにしていること。もう一つは、現在時制で全編を書き通していること。 『約束』は地の文に人物の心理や心の声が書きこまれ、これらがセリフと一体化しているためか、本作を「意識の流れ(stream of consciousness)」に分類する向きがあるが、「意識の流れ」という用語は最近濫用ぎみではないか。内面描写や、さらには単なるモノローグまでそう呼ばれることがある。少なくとも、ジョイスやウルフのそれはまさに人の意識の流れをそのまま追うものを指し、『約束』のように整然と編集された記述ではない。 では、本作の技法的はなにかといえば、自由間接話法と自由直接話法(内的独白)を使った内面描出である。テクストを支える作者の全知視点がしっかりある。 次に現在時制について。なぜいまどきの英米の小説家がこぞって過去時制を使わずに書くのかといえば、書かれた事象の完結化・固定化ひいては物語化を避け、語りの独裁に陥ることを避けるためなのだと私は考えている。かたや現在形は、不変性、普遍性、反復性、そして未決性をもち、過去になっていないなにかを表す。 「アモールはシャツを着た」と作者が書けば、それはすでに起きたことで覆らない。しかし「アモールはシャツを着る」という現在形は既定と未定の狭間にある。これが軽やかな印象に寄与してもいるのだろう。ちなみに、クッツェー研究者である田尻芳樹は「(現在時制は)ある種の開かれを担保する」ので、クッツェーの意にかなうのだろうと指摘している。 とはいえ、セリフを引用符からほどき、話法をぞんぶんに暴れさせながら、これだけ堅く手綱をとっているのだから、名人芸と言うほかない。
「意識の流れ」の現代的な名人芸
では、「意識の流れ」とはどんな技法かと言えば、直近の好例は大田ステファニー歓人『みどりいせき』だ。一部にこれを導入している。不登校すれすれの高校生と、かれが引きこまれた仲間の違法薬物取引き、薬物によるトリップなどが描かれ、背景にはコロナ禍とそれによって収入減の一人親家庭がある。本作もかなり危うい内容だが、『約束』と同様語り口は重くない。重力となるような留めを敢えてもたず浮遊しているような文体だ。 モノローグの語り手となるのは桃瀬翠という男子高校生。あるとき、小学校のときに野球のバッテリーを組んでいた春と校内で再会する。ちなみに春は女子ピッチャーで、どんな男子も打ちとれない球を投げていたようだ。ところが、春はいまではルルと呼ばれ、違法薬物の仲介に手を染めている。翠はそのことに気づかない。 物語はむかし春と出場した野球の試合の場面から始まるが、ちょっと面食らうだろう。春が放ったシュート回転の直球がキャッチャーの翠にぐんぐん迫ってくる。強い衝撃があって、彼は「後頭部が、ぐぎん、って着地」「頭ん中に細胞よりちっちゃなジョエル・ロスが登場して、ドレッドを振り乱しながらビブラホンを爆音で鳴り響かせる」「自分が誰なのかもおぼつかなくなる。落ちる直前に、チップをキャッチして揚々と返球する並行世界のぼくと目が合った」「ここは母宇宙なのか娘宇宙なのか。あるいはバルク。どっちゃ無。からのインフレイション。そしてビッグバン」とつづく。 そして次の項では、「まぁ、そんなこんなで宇宙はきゅん、とか、ぴえんだとか音をたてながら百三十八億年くらいずうっと無茶な成長期」にあった後、いろいろ、いろいろ、起きて「昨日はにんにく食べすぎちゃったし」と現在の「僕」に戻ってくるまで4ページ半。冒頭は回想と意識が飛んだ最中の幻だったらしいとわかる。 大田の文章は、若者独特の言いまわしとジャーゴンと薬物界隈の符牒だらけで、「ギャルピ」「しごおわ」「パッキパキ」などの言葉が飛び交う。とはいえ、ぶっ飛んでいる本作、リズムや臨場感、あるいは“トリップ”の現前性を重視した内面描出などは、現在形になっているが、ベースは過去形で書かれ、意外とクラシックな物語話法の骨格を保っている。また、終盤では主人公のまっとうな反省と自己認識もあり、その意味でも正統派の青春小説だ。こちらも名人芸。
朝日新聞社(好書好日)