プロレス史上最高視聴率「64%」…力道山vsザ・デストロイヤー戦「4の字固めの真実」
4の字固めは永遠に…
人気を博したデストロイヤーは、この年の11月に再来日。12月7日、シリーズの最終戦が終わると、翌8日夜、力道山に飲みに誘われたが、翌日には海外での試合を控えていたため、断った。それをデストロイヤー自身は、終生、悔やんでいる。その夜、力道山がクラブで暴漢に刺されたためだ(7日後、逝去)。 「自分が一緒にいれば、こんなことにはならなかった……」 前歯の差し歯を外す度に、この力道山戦のことを思いだすと言うデストロイヤーは、以降も、日本のリングへの協力は惜しまなかった。後には主戦場が全日本プロレスとなったため、ジャイアント馬場シンパとされる向きもあるが、若手時代のアントニオ猪木も可愛がり、よく移動の電車内でポーカーをしたという。自身もプロ入り前はアマレスでの実績があったため、猪木の技術の高さに、「アマレスから来た人材かと思った」と言う(※猪木のプロ入り前のスポーツ歴は砲丸投げを始めとする陸上競技で、アマレスの経験はない)。 力道山の死の翌年、猪木が念願のアメリカ修行に入ると、「良い選手がいる」と、数々のプロモーターに自らかけあい、試合が出来るようバックアップした。卓越した技術を持っていながら、ラフな展開にも決して退かない猪木に、自身と同じ闘志を感じていたのではなかったか。 デストロイヤーの日本でのマネジメントを受け持っていた人物に、こんな話を聞いたことがある。 「2016年の来日の時、『誰に会いたいですか』と聞いたら、猪木さんの名前が出まして。でも同じ日にサイン会が入っていてそれが長引き、夜、予定されていた猪木さんの会食の時間に、大分遅れてしまったんです。(まずいなあ、猪木さん、怒ってないかなあ)と思って、いざ、待ち合わせの店に着いたら……ビックリしました」 猪木が店の前で待っており、直立不動でデストロイヤーを出迎えたという。猪木は、2019年のデストロイヤーの訃報にあたり、こう語っている。 「非常にテクニックがあって。努力に裏打ちされた一流レスラーとしてのプライドを感じていました」 こんな評価の一方、実は件の力道山vsデストロイヤーについては、間近で見た関係者の以下のような声もある。 「もうちょっとテクニカルな勝負が観たかったね」(キラー・コワルスキー) 「非情にタフな試合だった。ただ、展開は単調だったが」(レフェリーを務めたフレッド・アトキンス)。 確かに、意地を張り合った、喧嘩まがいの死闘だったかも知れない。だが梶原一騎は、この試合をこう総括している(「週刊ゴング」1986年9月25日号)。 「近年、とかくプロレスのビッグマッチには実の伴わぬ凡戦が目立つ。2度と会場くんだりまで足を運ぶまいと思うが、またぞろ、もしや、もしやに引かされ通うのは、あれほどの試合が現実に存在したゆえか。とすれば、これまた力道山が日本プロレスに与えた大いなる遺産と言えよう」 数々のロマン溢れる格闘マンガを手掛けて来た同氏が、急死する4ヵ月前に残した原稿だった。 瑞 佐富郎 プロレス&格闘技ライター。愛知県名古屋市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。シナリオライターとして、故・田村孟氏に師事。フジテレビ「カルトQ~プロレス大会」の優勝を遠因に取材&執筆活動へ。近著に『アントニオ猪木』(新潮新書)、『プロレスラー夜明け前』(スタンダーズ)など。BSフジ放送「反骨のプロレス魂」シリーズの監修も務めている。 デイリー新潮編集部
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