「今思えばぞっとする経験もした。生き残ったのは運が良かっただけ」と語る田頭壽雄さん=鹿児島市喜入町(南日本新聞社)
母の叫び声が聞こえた。空襲だった。庭木の枝が飛び散り、柱や壁に爆弾の破片が突き刺さった。火の粉の中で父はかやぶき屋根に上って、母が下から投げ上げる濡れた衣類で類焼を防いだ【証言 語り継ぐ戦争】
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