原発事故で人が去った街に「若い移住者」がなぜ増え続ける?…サバ缶「Cava?」を大ヒットさせた元外交官が語る、その魅力
多くの住人が西に30キロほどの福島県田村市などに避難した。その後、役場機能は大熊町から90キロほど西に離れた会津若松市に置かれた。愛場さんの妻と子は実家のある群馬県に身を寄せ、愛場さんは休みが取れれば妻子の元に足を運んだ。一緒に暮らすことを望む妻とは口論になり「仕事を辞め、家族と暮らそうか」との思いが何度も頭をよぎった。それでも、愛場さんは妻に「自分だけ辞めることはできない。町を復興させたい」と伝えると、妻は「やり遂げて」と背中を押してくれた。ただ、不安定な生活が何年続くか見通せなかったため、愛場さんは妻子が落ちついて暮らせるよう群馬に自宅を建てた。そういう訳で、今は単身赴任生活を送っている。 ▽8年後の帰還 大熊町の一部で避難指示が解除されたのは2019年春で、愛場さんは第1陣として町に戻った。「ようやくここで働ける」と思うと、開庁式で涙があふれた。 それから5年がたった。生活インフラの復旧は序盤で、大熊町には今年2月1日時点で住民登録している9942人のうち635人しか住んでいない。愛場さんのように、役場の近くに住み、週末だけ町外の家族と過ごす職員は少なくない。今は税務課に勤め、町おこし行事があれば休みの日でも手伝いに顔を出す。町に入ってくる人には声をかけ、希望すれば平馬会に誘っていると、引っ越してきた新住人が人づてに訪ねてくるようになった。
復興に向け、大熊町では大がかりな工事が進んでいる。愛場さんが学校帰りに買い食いした商店や、ゲームセンターといった思い出の場所は姿を消した。かつての町に戻ることはもうない。それでも、愛場さんは「元々、大熊にいた人たちの笑顔が支え。新たに来てくれた人にも良いところだねって言われたい」と話す。 ▽失ったからこその多様性 原発周辺の町の将来像をどう見るか。福島県への移住経験がある復興庁復興推進委員の小林味愛さん(37)にインタビューをした。2017年に福島県国見町で地域の未利用資源を使って製品開発する商社「陽と人(ひとびと)」を立ち上げ、今は取引先が集中する東京に住まいを戻し、福島と行き来している。 小林さんは、原発被災地の特徴を次のように解説する。「課題はあるものの県外の人が思うより明るく先進的で、あれだけのエネルギーを持つ地域とはなかなか出会えない。企業や地域は価値観が画一的なことがあるが、ここは一度全てを失った。だから若手から年配、元々の住人や移住者とさまざまな人がいる。新しいことが始まり、多様という言葉が当てはまる」
さらに、ボランティア精神だけでは語れない新住人の姿をこう評した。「福島の復興につながるけれど、その文脈だけにとどまらない。自己犠牲じゃなく、やりたいことに挑戦しようとする人たちを受け入れられる土地と言える。そして、そういう人たちが個ではなくコミュニティーを形成している。移住者は、自分の出番と居場所を得られ、とても生きやすい。適した人材なんてものはなくて、移住希望者の母数を増やすことが大事だ」