原発事故で人が去った街に「若い移住者」がなぜ増え続ける?…サバ缶「Cava?」を大ヒットさせた元外交官が語る、その魅力
▽打ち出したプロジェクト 浪江町に住み始めてから住人を訪ねて回った。同じように移住してきた若者たちと言葉を交わしていると「ぼうぜんとする」ように感じられた町の状況でも、ポジティブさにむしろ勇気づけられた。避難指示解除を受け、すぐに戻ってきた年配の地元区長らも自分たちの取り組みに応援姿勢だった。「ここで生きてきた人と、外から来た人が一緒にコミュニティーをつくっていく。すごく希望を感じた」という。 壁画アートやバーチャル商店街、食のブランドづくりといったプロジェクトを次々と立ち上げ、同時並行で進めた。実験的な「なみえ星降る農園」では、獣害対策や土壌改良のためにヒトデを畑にまき、ビーツやレモンなど約100種類を栽培してきた。洋風サバ缶のような“スター作物”を生むべく、試行錯誤を続けている。 ▽なりわいにできるか 実は、原発事故で避難指示が出るなどした12市町村への移住者数は、ここ数年右肩上がりで、2018年度には約110人だったのが、2022年度には約600人まで増えている。特に帰還率が低い自治体では、移住者が担う役割は大きい。地域づくりを志望する移住者たちは、1人で複数の町づくり事業に関わっていることがざらだ。それを、なりわいにまで昇華するには、スキルが必要となる。高橋さんは「ここに来た頃は自分がやらなきゃと思っていた。でも若者たちが地方で自由になりわいをつくれなければ、サステナブルと言えない」と、これからも自らの知見を伝え、もり立てていくつもりだ。
▽町を支える単身者 高橋さんとは逆に、地元で生まれ育ち、町づくりのキーパーソンになった人もいる。福島第1原発があり、まだ一部の地域でしか生活できない福島県大熊町では1月中旬、営業中の数少ない居酒屋で地域団体「大熊平馬会」の新年会が開かれていた。わいわいと盛り上がる中、若い移住者や帰還者たちの輪の中心には、町職員愛場学さん(44)の姿があった。原発事故で8年間にわたって全町避難を余儀なくされ、地元に戻ってきてからは住人のつなぎ役として欠かせない存在だ。 愛場さんが代表を務める大熊平馬会は主要メンバーが20人ほどで、出身がばらばらの人たちが町の伝統を維持しようと、定期的に集まって笛や太鼓の練習をし、町の盆踊りに花を添える。福島県と全く縁がなかった人もいて「仕事だけだと友達が増えなかった。いろいろな人とつながることができる」と口にする。 ▽3・11で町を離れ 愛場さんは大熊町で生まれ、高校卒業後に町職員になった。東日本大震災時は窓口業務中で、慌てて外に飛び出すと地面が波打っていた。総合体育館で避難者対応に追われていた翌12日の早朝、防護服姿の警察官が現れて「西へ避難してください」と叫ぶように告げたのを覚えている。愛場さんは、数十台ものバスで町民を送り出した後、自身も軽トラックで出発した。たどり着いた避難所で原発が爆発する映像を目にし、二度と戻れないと覚悟した。