投機に明け暮れた青春時代 蛎殻町の米相場でスッテンテン 穴水要七(上)
養父から預かった塩の仕入れ代金で、米相場に手を出しスッテンテン
雨宮敬次郎、若尾逸平、小野金六、根津嘉一郎、小林一三、……甲州財閥の面々にはみな、投機本能がみなぎっていた。『歴代国会議員名鑑』にも穴水が相場に導かれて上京したことが記載されている。穴水要七のことを“相場狂い”と呼んだ伝記作家もいるほどだ。こんなことがあった。養父から預かった塩の仕入れ代金800円をふところに静岡に向かうはずが、東京に出掛けて、日本橋蛎殻町の米相場を手掛ける。大胆なやり口で一攫千金を狙うが、5日目でスッテンテンになってしまう。 進退極って穴水はやはり伯父に当たる小野金六(当時富士製紙社長で甲州財閥のリーダー)に助けを求める。金六からはきつく戒められるが、この金六伯父がまた投機心の塊のような人物で、要七の所業にみずからの若かりしころを思い出したことだろう。「2度と相場に手を出すな」などと野暮なことは言わなかった。いや、言われたところで相場をやめるような要七でなかった。
大失敗をしてもなお、投機の本能はとどまるところを知らず
いったんは養父にわび状を入れ、甲府で小商いにうつうつたる日を送るが、ひとたびセキを切った要七の投機本能はとどまるところを知らない。 「彼の相場熱は奔流の如くなって、ついに通帳と実印を盗み出して養家の金を無断で持ち出してか弱い女房とみを残して再び東京に出奔するまでに至った」(『財界物故傑物伝』) 神田美土代町に小さい一軒家を借り、連日米相場の町、蛎殻町に入りびたる。 女房とみが父親から万一の場合に備えて、もらっていた300円の大金も要七の追証に化けてしまう。とみは裁縫の賃仕事で糊口をしのぐ羽目に陥る。 要七は再び伯父小野金六を訪ねる。金六の紹介で下谷の尾張屋洋紙店の番頭として働くことになる。そして3カ月、養家の長男が慶應義塾在学中に急逝すると、甲府に再び呼び戻される。養父のもとで勤勉、寡黙な青年として働くが、要七の大志は満たされるはずがない。=敬称略 【連載】投資家の美学<市場経済研究所・代表取締役 鍋島高明(なべしま・たかはる)> ■穴水要七(1875-1929年)の横顔 1875(明治8)年、山梨県韮崎市出身、負けん気の強い少年で異彩を放っていた。13歳の時、甲府で穴水商店を営む伯父嘉三郎のもとに丁稚奉公に出される。奉公先は酒屋であったが、やがて、油脂、塩の商いも始め、竹屋業も営む。その後、富士製紙、北海道電灯、富士身延鉄道、富士山麓鉄道、函館水電、静岡電力、樺太鉄道の各取締役を歴任。1917(大正6)年第13期衆議院議員選に山梨県から出馬し、当選、以来4回連続当選、立憲政友会に所属。