立原道造の名言「僕は 曙を見るために 中津川に出て行った」【本と名言365】
これまでになかった手法で新しい価値観を提示してきた各界の偉人たちの名言を日替わりで紹介。1939年に24歳で亡くなった詩人の立原道造。その死の2年前に構想され、死後に建設された埼玉の〈ヒアシンスハウス〉は彼の建築家としての才能を今に伝えています。この構想と死の短い間に盛岡を訪れ、詩的な紀行文を残しました。 【フォトギャラリーを見る】 僕は 曙を見るために 中津川に出て行った 岩手・盛岡は文芸の街でもある。盛岡駅を出て駅舎を眺めれば、石川啄木の筆跡からなる「もりおか」の文字が目に入るし、宮沢賢治の『注文の多い料理店』を出版した〈光原社〉もある。当然、この街の書店に入れば彼らの作品が揃っている。老舗書店〈さわや書店 本店〉もそのひとつだ。しかし、少し意外だったのは立原道造の著作が平積みされていたこと。東京で生まれ育ち、若くして亡くなった詩人は、その死の直前に1度だけ盛岡を訪れ、そのときの紀行文を残している。 その滞在は、死の半年前の1938年9月から10月にかけた約ひと月の間の出来事。夜中に到着したのちの一文目は「ねむっている間に とうとう盛岡!」と、とても明るい。心酔する啄木の生まれた村を訪れたり、宿を提供してくれた友人との温かな交流も綴られる。同時に、その筆運びは常に詩的で、自然や美、孤独や夢について語る。例えば夕焼けをみて、こう綴るように。「この美しさに 沈黙は耐えられない しかし 言葉はすべてに形と影とを与えてしまうだろう」。 そして詩的であるからこそ、80年以上を経た今でも印象的に映るフレーズに出会うことができる。「僕は 曙を見るために 中津川に出て行った」。中津川とは盛岡城址や市役所の隣を流れる川で、立原のような旅人の多くも目にすることになる街のシンボルのひとつだ。川にかかる橋を行き来しながらあたりを眺めれば、南昌山の上のほうは赤く日に照らされ、岩手山は薔薇色の雲がかかっていたという。詩人の目を借りれば、日常的な光景も色鮮やかに見えてくる。
たちはら・みちぞう
1914年東京生まれ。13歳のときから歌集、詩集を発表する。34年に東京帝国大学工学部建築学科に入学。岸田日出刀に師事する。ひと学年下には丹下健三らがいた。37年に卒業後、石本建築事務所に入社するも翌年に療養のため休職。〈ヒアシンスハウス〉構想や盛岡、長崎への旅を経て、39年結核のため死去。〈ヒアシンスハウス〉は2004年に建設され、今に至る。
photo_Yuki Sonoyama text_Ryota Mukai illustration_Yoshifumi T...