スカイツリーの落差を3分で「落ちる」海底エレベーターで採掘へ!世界最大の人口密度「軍艦島」での驚くべき暮らしの実態とは
◆良質な石炭を得るための壁 ガス突出を高等技術で克服 1891(明治24)年には製塩工場の建設とそれに伴う蒸留水機が設置され、飲料水配給体制も万全に。さらには、島の拡張工事などによって炭鉱としての基礎が整えられていく。この明治中期の島内には中央部に3~4階建ての木造住宅が数棟、東部に採炭作業場、西部に住宅、北部には1893(明治26)年に創立された三菱社立尋常小学校などの公共施設や娯楽施設があった。 1895(明治28)年に第二竪坑が、翌1896(明治29)年には旧第三竪坑が完成。当初、三菱は採炭が盛んだった高島の支坑として端島を買収したが、相次ぐ竪坑の開削により、1897(明治30)年には、ついに高島の出炭量を上回ることになる。 端島で産出される石炭は国内トップクラスの炭質であることから、現在の福岡県北九州市にある八幡(やはた)製鉄所に製鉄用原料炭として主に供給されていた。 一方で、石炭の微粉化率が大きいため、酸素を吸収しやすく、自然発火しやすかったこと、また、ガス湧出量が多いため、ガス突出(粉炭が高圧ガスとともに噴き出す現象)も起こりやすかったことから、採炭には高度な技術が必要とされた。 採炭は個人の技術によるところが大きいため、給料のなかには1~10級まで定められた技能級手当が含まれた。1年ごとに等級の査定を行うことで、技能の向上が図られていた。
◆スカイツリーの落差を3分で「落ちる」海底エレベーター 大正から昭和にかけて、端島は最盛期を迎える。「軍艦島」と呼ばれるようになったのも、大正期に入ってからのことだ。1923(大正12)年には、のちに換気用として使われることになる第四竪坑が完成した。第一竪坑は明治期に坑内火災によって閉鎖されたため、最盛期に稼働していたのは第二~四竪坑。 この3本の竪坑ではベルトコンベヤーなどの機械化が進み、第二竪坑に関してはさらなる掘り下げも行われた。 こうして、太平洋戦争開戦となる1941(昭和16)年には年間出炭最高記録となる41万1100tを達成。戦時中の急激な石炭需要増加にも対応していった。 端島の海底には地下1km以上、周囲2km以上の広大な範囲に、いくつもの海底坑道が張りめぐらされていた。採炭は24時間3交代制(戦時中は2交代制)で、昼夜を問わずフル稼働で行われた。鉱員たちは詰め所で打ち合わせをしたあと、ケージと呼ばれたエレベーターに乗って竪坑を下りる。 ケージは606mと東京スカイツリーに匹敵する深さを最大秒速8m、たったの3分ほどで昇降する。これは「下りる」というより「落ちる」という感覚に近く、失神する人もいたようだ。 坑底に着いたあとは500mほど歩き、人車に乗車。この人車もまた急傾斜を猛スピードで下るため、とうてい前を向いては座れず、鉱員たちはみな後ろ向きに座っていたという。 そうしてたどり着いた採掘現場は気温約30℃、湿度約95%、常にガス爆発などの危険と隣り合わせの、とても厳しい環境だった。
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