「袴田事件」を描いた異色の新作劇「反骨」…作・演出家が語る2時間の舞台に込めた思いとは
袴田事件を裁いた男
「熊本さんは、第1審で、裁判官3人のうち、ただ1人、取り調べの異常ぶりを認め、無罪を主張したひとです。結局、ほかの裁判官を説得できず、心ならずも死刑判決文を書くこととなりました。その判決文には、違法な取り調べに対する疑問が、ちゃんと書かれていました。しかしその後、良心の呵責に耐えかねて裁判官を辞任、弁護士に転身するのですが、苦悩の果て、酒におぼれ、心身を病んでしまうのです。晩年は、袴田さん救出運動にかかわり、再審請求書の陳述書まで提出します」 心身を病んで、九州の病院に入院中の熊本弁護士を、袴田姉弟が訪ねて、静岡地裁以来、50年ぶりに顔を合わせるシーンがある。これも、2018年にあった、実在のエピソードだ。後半の見せ場である。 熊本弁護士は、車椅子に乗り、不自由な口調で、こういう。 「す…すまなかった…さぞ…お恨みでしょう…お怒りでしょう…許されるとは思っていない…申し訳なかった…どうか…思う存分…殴ってくれ」 ところが袴田さんは、すでに通常のコミュニケーションがとれる状態ではない。奇妙なセリフをいう。 「あんたの周りにもバイキンがたくさんいるな。いっしょにローマへ行こう。行けば全世界のバイキンが死ぬ。世界中のバイキンが死ねば、みな、幸せになれる」 その様子を見て、姉のひで子さんの独白――。 「やっぱり、そうだった。巌は、熊本さんを許していた。巌は全世界の人たちに真の自由を求めていた。命尽きるまでがんばろう。必ず無罪を勝ち取るんだ」 だが熊本弁護士は、袴田さんの最終無罪を見届けることなく、2020年11月、83歳で逝去する。 その熊本弁護士を演じたのが、状況劇場出身、舞台や声優で活躍する坂元貞美さんだ。だが実は、この役は、本来、別の役者が演じる予定だった。その役者のために、香川さんが“あて書き”したのだった。
「被告人、袴田巌は、無罪!」
その役者とは――つい最近、2024年11月7日に、82歳で没した俳優、神太郎〔じん・たろう〕さんである。ベテラン役者で、TV「クイズ地球まるかじり」でグルメ・リポーターをつとめて大人気となったのをご記憶の方も多いだろう。渋い低音の声が魅力で、声優やディスク・ジョッキーとしても活躍した。 「神さんとは、もう長い付き合いで、たとえワン・シーンでも、俺の芝居には、毎回、出演してくれていました。今回も、8月に第一稿を書き上げた際の試し読みには来てくれたんです。その際、ずいぶん痩せていたので、心配したのですが、ご本人は『熱中症なんだよ』なんて笑っていました」(香川さん) しかしその1か月後、香川さんのもとへ、神さんから電話が入る。 「実は、すい臓ガンで、もう長くないというんです。だから、今回の役は下ろしてくれ、と。ショックでした。実は神さんは、お父さんが福島地裁の判事だったんです。それだけに、裁判官という職業をとても身近に感じていて、ぜひ演じたいといってくれていたんです。しかも熊本弁護士は、神さんとほぼ同年齢でしたから……」 そこで、急きょ、熊本弁護士役は、坂元貞美さんに演じてもらうことになったのだという。 「しかし、俺としては、どうしても、神さんには、何かの形でこの芝居にかかわってほしかった。そこで、劇中で流れる、再審決定の判決文を読み上げる裁判長の“声”に、録音で出演してもらうことにしました」 低音の渋い声は、神さんのトレード・マークである。神さんは、快く承知してくれた。香川さんは、録音機材をもって、寝たきりの神さんのもとを訪れる。弱った身体を起こして、死が近いとはとても思えない、力強い声で、神さんは、マイクに向かって、こういった。 「被告人は極めて長時間、死刑の恐怖のもとで身柄を拘束されてきた。これ以上拘置を続けるのは耐えがたいほど正義に反する。よって死刑執行を停止し釈放を認める!」 結局、神さんは公演を観ることなく、初日2週間前に、息を引き取った。遺族の要望で、神さんの告別式で、その録音が流されたという。神さんの、最期の仕事だ。 そして舞台では、最終無罪判決の“声”が流れた直後、小川より子さん演じる、姉のひで子さんが、こういう。 「終わったよ。お前は無罪だ!」 1966年8月18日に逮捕された袴田巌さんは、2024年9月26日、これらの“声”によって、死刑の恐怖から“解放”されたのである。 舞台「反骨」は、静岡・浜松市浜北文化センターで、7月30日~8月1日に再演が決定している。浜松は、袴田さんの故郷である。 (一部敬称略) 森重良太(もりしげ・りょうた) 1958年生まれ。週刊新潮記者を皮切りに、新潮社で42年間、編集者をつとめ、現在はフリー。音楽ライター・富樫鉄火としても活躍中。 デイリー新潮編集部
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