「表現の不自由展・その後」再開 なお残る乗り越えるべき論点
検閲の定義は国内外で温度差
一方で検閲の解釈や定義については、まだ国内外で意見が一致したとは言えません。 10月5、6両日の「国際フォーラム」では、日本で検閲について法的に厳密な定義があると聞かされた海外のキュレーターが「自分の国では検閲(英語の「センサーシップ」)は法律的な言葉ではない」として不思議がる場面がありました。特に中南米では検閲の「幅」が広いだけにアートへの政治介入が多く、作家は「検閲に敏感だ」と今回、自作を改変して抗議の意思を示したメキシコの作家、モニカ・メイヤー氏は明かしました。 一方、日本では「自己検閲」がはびこる空気があるとも指摘され、状況が一層複雑になります。憲法学者の横大道(よこだいどう)聡・慶応義塾大教授は「検閲は日本ではパワーワード(非常に強い言葉)で、感情を喚起する」とした上で、「これは検閲か」という問いに「いや、憲法上の検閲ではない」と返されると「議論が深まらないこともある」との見方を示しました。 今回はそもそも「『表現の自由』対『検閲とテロ』という構図」が「作り出された偽の問題だ」といった東浩紀氏(今回の問題で自ら辞任したトリエンナーレの前企画アドバイザー)の主張もあり、議論のすれ違いがまだ多くの場所で発生しているようです。
問われる「公」の役割
言葉の定義としてはもう一つ、「公」の意味が問われました。今回の一般的な議論の争点は「公金」の使われ方や「公的」な施設にふさわしいかどうかです。しかし、「日本語の『公』にはどうしても『お上の…』といったニュアンスが出てきてしまう」と国際フォーラムで総合司会を務めた林道郎・上智大教授。それに対して英語の「パブリック」はもっと開かれた市民のもので、そうした本来の意味での公の「多様性を取り戻さなければ」と訴えました。 横大道教授は「公道でデモ行進をする」例を上げ、「道路は国民が表現の場所として使ってきたパブリック・フォーラム。そうした場所ではいくら国や自治体が管理していても原則、表現の自由を認めないといけない」と述べました。 この道路の例えは非常に分かりやすいのではないでしょうか。左右どちらに偏った主張でも、声を上げられる環境を「公」は整えなければなりません。ただし、今回は「市民のデモ行進」でなく、道路を利用する主体も「公的」であるところが少し違います。 奇しくも名古屋市の河村たかし市長は、今回の少女像や天皇の肖像を焼く作品が「もし名古屋まつり(三英傑に扮した市民が公道を練り歩く市など主催の祭り)で出てきたらどうしますか」と、記者会見で極論を展開しました。あり得ない考えではありますが、今回はこうした主張も一笑に付すことなく向き合うべきなのでしょう。