孫呉の「四天王」は、なぜ蜀の五虎将や魏の五大将より地味なのか?
小説『三国志演義』で活躍する「三国」の武将といえば、蜀の五虎将(関羽・張飛・趙雲・黄忠・馬超)が代表的な存在である。いっぽう、小説ではマイナーな扱いになるが、魏にも四天王(夏侯惇・夏侯淵・曹仁・曹洪)や、五名将(張遼・徐晃・于禁・楽進・張郃)というべき位置づけの将がいる。 では呉はどうかというと、これが実は見当たらない。そもそも呉自体がマイナーだから・・・と言ってはいけない。真面目に考えると、一応は周瑜・魯粛・呂蒙・陸遜という存在がいるが、彼らは最前線に出て戦うよりも大軍を指揮する指令官。とくに魯粛(ろしゅく)は、正史の実績を見ても政治家・外交官というべき活躍をしている。 孫権陣営の個々の武将が目立たない原因はさまざまだ。まず、短期間に主家である孫家のトップが孫堅から孫策、孫権へと代替わりして世代交代していること。また呉が基盤とする江東では、孫家よりも在地豪族のほうが力を持っていたことが大きいように思える。「赤壁の戦い」で、当初は曹操との合戦よりも降伏論が多数を占めたのは、そのあたりが影響していよう。 孫家よりも力を持つ、名門周家の周瑜(しゅうゆ)が指揮権を持ったのも、ようはそういうことだ。周瑜が孫権を「奉戴」して赤壁の戦いに勝ったことで結束が強まり、孫権の地位も固まったということになろう。 前置きが長くなったが、そんな孫呉にも「生え抜き」と呼べる武将たちは確かにいた。それが初代・孫堅の旗揚げから仕えた叩き上げの四将。程普(ていふ)、黄蓋(こうがい)、韓当(かんとう)、祖茂(そぼう)である。 彼らは四天王とも目されるが(注:史書に具体的な記述はない)、このうち祖茂は董卓(とうたく)軍との戦いで早々に姿を消す。「演義」では孫堅の身代わりになって華雄(かゆう)に斬られるが、正史でも孫堅の影武者になって以降登場しないので、やはり死んだと思われる。 ほか3人、程普・黄蓋・韓当の活躍はどうだったか。やはりというか地味である。3人のうち、最も目立って活躍した人は黄蓋であろう。赤壁の戦いで曹操に投降を持ちかけての火攻めを思いついたのは彼であり「苦肉の計」のために体を張ってそれを敢行した。 韓当は、その赤壁の戦いにおいて、負傷して厠(かわや)に放置されている黄蓋を救い出したほか、夷陵(いりょう)の戦いにも参戦するなど目立たぬものの息の長い活躍をした。呉が正式に国家となる以前の勢力で、武官では長老的ポジションの座をキープした。 3人のうち最年長とされるのが程普である。旗揚げ間もない孫堅を支えた最古参というべき武将。「演義」の話ながら、洛陽城内の井戸の中から玉璽(ぎょくじ=皇帝が用いる印章)を発見したとき、程普が「これは天が殿に授けられたもの、ここに長く留まることは良くありませぬ」と進言して学識の高さを示す見せ場がある。 208年「赤壁の戦い」で彼は周瑜とともに左右の督(とく)という総指揮を与えられた。軍中で一目置かれていた証だろう。だが指揮官2人となると、何かと問題が起こるようだ。 はたして、程普は周瑜を「若造」と侮る。さらに若い孫権(28歳)は、両者の顔を立てたのだろうが、やはり采配ミスだったかもしれない。 しかし、ここは周瑜が大人の対応をした。彼は程普に逆らわず、何かと立てた。そうするうちに程普も周瑜に心を許し、副将に徹するようになる。「周郎と話していると、まるで美酒に酔ってしまうように気持ちよくなるわい」とまでいった。こうして一丸となった孫権軍は「赤壁の戦い」を制したのである。 後年、呂蒙がこんなことを孫権に言った。「かつて周瑜、程普、両将の間がうまく行かず、国家の大事を損なう危険がありました」と。関羽を攻めるにあたり、孫皎(そんこう)とのタッグを命じられたことによる具申だった。それを聞いた孫権は呂蒙に指揮権を与えて事なきを得たが、赤壁では主君の采配ミスを周瑜と程普がうまくカバーしたといえる。 程普はその後、早世した周瑜に代わって荊州の最前線を守備するが、病でひっそりと歴史の表舞台から去った。それは黄蓋も同様だ。両人とも没年すら記されず、年齢不詳なのはどこか寂しい。 結局のところ、周瑜や陸遜のような名族が政権をリードする孫呉という勢力で、程普・黄蓋・韓当の3人はそのようなアドバンテージを持たなかった。とくに程普と韓当は北方からの流れ者というハンデがあり、まさに「叩き上げ」であった。 正史『三国志』の構成も微妙だ。「呉書」での順序が真ん中あたりなのは良いとして、54巻「周瑜魯粛呂蒙伝」で周瑜・魯粛・呂蒙の3人が紹介されたあと、55巻に「程黄韓蔣周陳董甘淩徐潘丁伝」と十二将が一括りで出てくる。 程普・黄蓋・韓当は順番としては先だが、蔣欽・周泰・陳武・董襲・甘寧・凌統・徐盛・潘璋・丁奉という後輩たちと同じ扱いで、記述も短い。甘寧や凌統などは明らかに程普らより文量が多い。次の56巻は「朱治朱然呂範朱桓伝」と、朱治・朱然・呂範・朱桓の4人でまとまっているのを見ても、十把一絡げの扱いである。 これを見ると、彼らが小説でも華々しい活躍の場を得ることなく、相変わらず地味な理由が納得できようか。とはいえ「演義」を通読すれば「程黄韓」の活躍は少なくとも充分に記憶に残るのは間違いない。一定の人気があったのは確かである。
上永哲矢