「何を言い出す」役員会にもかけられた高橋名人の後悔「ゲームは1日1時間」発言はもっと早くすべきだった
高橋名人:はい、イベントやテレビ出演以外のときは、宣伝部員としてマニュアルを作ったり、デザインや印刷を考えたりしながら、ふだんの業務をこなしていました。『冒険島』はシリーズ4作まで続いたんですよ。 ── テレビや雑誌に出るようになると、町で声をかけられたりしませんでしたか?ふだんからトレードマークの「帽子スタイル」で? 高橋名人:はい。でも、東京って有名人がたくさんいるからあんまり気にする人もいなくて、皆さんが考えるより過ごしやすいですよ。取り囲んでどうこう、というのはありませんでした。
でも、大阪だけは例外で、宿泊したホテルから「夕飯は外では食べないでください」と言われました。1回、光GENJIさんが泊まったとき、外に出たら大騒ぎになったらしくて。 ── やはりすごい人気だったんですねぇ。私も、子どもだったら声をかけていたかも。 高橋名人:親子連れの場合は、お母さんが先に気づくことが多かったです。お母さんが「ほら、高橋名人だよ」って、お子さんにささやいているのはちょこちょこ耳にしましたが、私はあまり気になりませんでした。
■最初は「失敗できない」気負いもあった ──「高橋名人」という名前に対する思い入れやプレッシャーは? 高橋名人:最初は「名人」というからには変な失敗はできない、子どもに負けてはいけないという気負いがありました。 でも、本番に強かったので負けたことはありません。子どもたちにとっては、名人はドラえもんでいう“ジャイアン”みたいな立場を意識していました。リーダーや兄貴みたいな存在でしょうか。 練習もそんなにできるものでもないので1日に1~2時間くらい。私はデモンストレーターなので、軽くプレイしてみて、ここをみんなに見せようと場面を決めて、そこをカッコよくできるよう練習していました。
当時は、技術的な理由によりゲームの画面を録画することができなかったんですよ。だから、基本はその場でやってみせて、失敗したらそれで終わり。すごい緊張感がありました。 ── ハドソン社内での役職名が「名人」になったというニュースがありましたね。 高橋名人:2006年かな、ある日、社長に呼ばれて「役職を名人にする」と言われたんです。入社して3年目から「高橋名人」を名乗っていたのですが、あれ?今までの呼び方は何だったのだろう、とは思いました。