「私を完全に狂わせた」落合博満43歳vs日本ハム名将の不仲説…「屈辱のスタメン落ち、戦犯扱い」それでも落合が43歳でマークした“誰にも破られていない記録”
「おまえ、ヒロスエって知ってるか?」
前半戦終了時、打率.266、3本塁打、33打点。日本ハムとは2年契約を結んでいたが、限界説も囁かれた。16度目の選出にして、これが最後の球宴だろうと感じていた落合に、全パの仰木彬監督は第2戦の「トップバッターでの1打席起用」を告げる。結果は元同僚の山本昌(中日)の前にあえなく三球三振に倒れるも、オールスター戦のまっさらな打席で先頭打者としてオレ流がバットを構える。それは仰木なりの演出であり、偉大な大打者への花道でもあった。 「この日の始球式ゲストは、タレントの広末涼子さん。若い選手にはしきりに羨ましがられたが、当時は広末さんのことを知らなかった私は、全セのベンチ裏へ行って大野豊(当時・広島)をつかまえ『おまえ、ヒロスエリョウコって知ってるか? 』と聞いた。すると、大野は『いいえ。誰ですか、それ? 』という期待通りの答え。世間では有名で人気のあるタレントらしいと説明して『俺たちも、オジンになったなぁ』とお互いに苦笑したのを覚えている」(プロフェッショナル/落合博満/ベースボール・マガジン社) デビュー曲「MajiでKoiする5秒前」がヒットしたアイドルの広末涼子は、当時17歳になったばかりで、最年長出場の落合とは親子ほど歳が離れていた。なお、出場選手の平均年齢は全セが29歳、全パが28.7歳。初出場選手は13人を数えた。平成球界は世代交代の真っ只中だったのだ。
屈辱のスタメン落ち…「だが、誰にも破られていない記録」
そして、日本ハムでも徐々に落合は微妙な立ち位置になっていく。コーチ役も自身の成績が伴わなければ、自然と若手とも距離ができてしまう。 8月6日のロッテ戦で王貞治に続く史上2人目の1500四死球を達成したが、後半戦本塁打なしで迎えた8月22日のオリックス戦で、一塁ライナーを捕球した際に左第四指末節骨を脱臼。26日の西武戦で16年ぶりの「六番一塁」で無理に復帰するも、患部を悪化させて離脱。9月9日のダイエー戦で11試合振りに戻ると、七番起用で4打数無安打に終わる。だが、崖っぷちの「七番落合」は意地を見せる。9月14日、敵地の近鉄戦で日本ハム打線は小池秀郎に8回一死までノーヒットノーランに抑えられるも、落合が左翼へ二塁打を放ち記録を阻止するのだ。 「(無安打を)止めにいったんだよ。おれが止めるしかないだろ。最後はインコースの真っすぐしかない。読み通りだよ」(日刊スポーツ1997年9月15日) だが、直後からチームはイースタンで20本塁打を放った西浦克拓を一塁で先発起用するのだ。上田監督もプロ初アーチを放った22歳の大砲候補に対して、「落合のライバルだと思ってやってほしい」と世代交代への期待を口にした。9月17日以降、落合の先発起用はなく、代打出場のみとなる。1年前、Vの使者として金屏風の前で盛大に迎え入れられたオレ流は、いまや前年2位からBクラス転落のチームの戦犯として叩かれるのだ。 113試合、打率.262、3本塁打、43打点、3盗塁、OPS.680。レギュラー定着後、ほとんどの部門で自己最低の成績に終わったが、466打席に立ち、61四球を選び、104安打を放った。長いプロ野球史において、44歳になるシーズンで規定打席に到達した選手は、いまだに落合以外いない。衰えてなお、オレ流は球史にその名を刻んだのだ。 そして、日本ハムの落合博満は、1998年に「最後の1年」を迎えることになる。 <全3回/前編、中編から続く>
(「ぶら野球」中溝康隆 = 文)
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