一年で最初にやってくる大切な節供「人日」と七草粥の由来
若菜摘みについてもう少し。承平5年(935)成立の紀貫之の『土佐日記』には、旅の途上、人からもらった物の中に若菜が入っていたため、その日が正月七日であることを思い出したことなどが記されています。 『枕草子』(1000年頃成立)など、平安時代以降に編まれた書物にも若菜摘みは多く登場します。延喜5年(905)または12年(912)頃に編纂された『古今和歌集』に見える光孝天皇の和歌は、『小倉百人一首』にも選ばれた歌としてもよく知られていますね。 〈君がため春の野に出でて若菜つむわが衣でに雪は降りつつ〉 伊勢神宮の儀式についてまとめた延暦23年(804)『皇太神宮儀式帳』には、「七日新菜御羹作奉」(七日に若菜の吸物を作って神に献じる)と記されています。
七草粥だけじゃない、7日の重要行事
先述した『土佐日記』には、「七日であれば宮中で白馬の節会があるはずだが、旅先で考えても仕方がない」といったような記述も見えます。 白馬節会(あおうまのせちえ)は1月七日に宮中の庭に白馬を引き出し、天皇や貴族が馬を愛でながら宴を催した行事です。この行事も中国の故事に由来するもので、もとは青みを帯びた黒馬(あおうま)が使われていましたが、古くから白を清い色とした日本では白馬や葦毛(灰色)の馬が用いられるようになり、呼び方だけが残って白馬を「あおうま」と記すようになったといわれています。現在でも、鹿島神宮や上賀茂神社、住吉大社などで神前に馬を引き出す神事として継承されています。
時代は下って江戸時代になると、人日の七草粥の風習は幕府の公式行事とされました。将軍以下、全ての武士が七草粥を食べて人日の節句を祝ったのです。これが庶民にも広がり、今日まで定着しています。 人日という節句名こそ忘れられがちですが、幸いにして七草粥を食べる風習は根付いており、今も7日にはスーパーに七草が並びます。正月の贅沢料理による胃疲れを癒すともいわれる七草粥。是非、その歴史に思いを馳せながら、味わってみて下さい。 (福徳神社<東京・日本橋>宮司 真木千明) 著者プロフィール 真木千明(まきちあき) 昭和29年、福岡県生まれ。福徳神社(東京・日本橋)宮司。國學院大學卒業後、日枝神社、水天宮(東京)を経て現職。真木家は代々、福岡県久留米市鎮座の水天宮の宮司を務める社家の生まれで、幕末の志士・真木和泉守保臣の直系子孫。著書に『ご縁で生きる~ひとりでがんばらない処方箋』(小学館)がある。