「焼燐弾で焼かれた子どもと女性は、骨まで焦がし地べたをのたうち回り苦しんだ」米海兵隊による虐殺が行われた悲惨な沖縄戦
首里城と沖縄戦 #4
沖縄戦史研究者が日米の資料を読み解きながら、第二次世界大戦中の沖縄戦での首里城攻防をまとめた書籍『首里城と沖縄戦』。 【イラスト】敗走する日本軍に追撃を加え続けた戦艦ニューヨーク 書籍より一部抜粋・再構成し、米軍の勝利が決まった後に行われた悲惨な虐殺の様子を伝える。
戦艦の追撃
退避する日本軍や民間人に砲撃を加えたのは、戦艦ニューヨーク、重巡洋艦ニュー・オーリンズ、および軽巡洋艦ヴィンセネスであった。 これら艦船は、5月25日から月末にかけて、首里や周辺町村から移動する人の群れに対し、第1海兵師団の要請を受けて砲弾を撃ち続けた。 南下するには、南風原村一帯の一日橋や那覇近郊の真玉橋などを越えねばならなかった。橋の手前で右往左往する民間人や兵士らを目掛け、艦船は休みなく巨弾を発射した。戦艦ニューヨークの迅速な艦砲射撃に対し第1海兵師団は、「砲撃要請から約1時間で、素早く発砲していただき感謝します。本当にいい仕事をしてくれました(*1)」と26日に感謝電を送っている。 さらに翌27日には同じく第1海兵師団が、戦艦3隻に感謝電を打電している(*2)。ただし、同じ艦船でも重巡洋艦ニュー・オーリンズの反応は幾分違っていた。同艦の艦長は、退避行動で混雑を極める道路への攻撃には気が引けたようだが、「これは軍事的に必要だと考え、砲撃命令を下した。道路上の大量移動が最初に目撃された13分後、重巡洋艦ニュー・オーリンズの20センチ主砲が、ゆっくり進む日本軍の長い縦隊に向かって火を噴いた(*3)」。 米軍が攻撃をためらったのは、日本側が対米プロパガンダに利用した「米軍による民間人や兵士への大量虐殺行為」をここで立証することになるからである。 また、退避行動の際、多くの者が白の装束であったからである。これについて米空中偵察隊は、「これら人々は白い衣服を着けていたので兵士とは信じられなかった。事前に日本軍戦線後方に宣伝ビラを投下しており、白い衣服を着けている者は、民間人と認め、こうすれば機銃掃射や爆撃はしないと告げてあった(*4)」と述べている。 仮にそうならば、巡洋艦などが白い服を着たいわゆる「民間人」が集まっている只中に長距離の大型艦砲射撃を行なうことは、国際法にもとる戦争犯罪で、大量虐殺の片棒を担いだことになる。