美術家・篠田桃紅の「意外なルーツ」…作品が持つ独創的な世界観は「伝統的な学問」に培われた
「希望どおりにいかないのが現実。だけど思い出は、悲しかったことでも、楽しかったことでも、“ある”ということがとてもいいことだなと思いますね。」自由闊達かつ独創的な筆遣いで植物や天候の移ろい、人の感情を表現し数々の作品を生み出した美術家・篠田桃紅。そんな彼女を育んだ、特異な生い立ちとは。 【漫画】死刑囚が執行時に「アイマスク」を着用する衝撃の理由 大正デモクラシーから震災、空襲を経て現代に渡る自身の生涯をエッセイとともに綴る『これでおしまい』(篠田桃紅著)より一部抜粋してお届けする。 『これでおしまい』連載第2回 『大正の時代に毎日「カステラ」を…!? 美術家・篠田桃紅の「裕福すぎる」幼少期とは』より続く
旧態依然な洋式の生活
少女時代を過ごした家には、まだ一般に普及していなかった扇風機、オルガン、米国のシンガーミシンなどがいち早く取り揃えられ、彼女の友人らは扇風機に当たりに来たり、オルガンを弾きに来たりしていました。 しかし一方で、桃紅も含めた4人の姉妹に対する父の躾は孔子の儒教そのもの。「男女7歳にして席を同じうせず」と厳しく言い渡され、友人の家に遊びに出かけた後、帰宅時に友人の兄弟が送り届けることすら禁じられました。 「女学校時代の関西旅行、東北旅行の修学旅行にも出してもらったことがないですよ。『女の子が外に泊まるのはいけない』。ただそれだけの一点張りでした」 父は江戸幕府以前から続く由緒ある旧家の15、6代目の当主として生まれます。徳川家康が江戸幕府をつくったその年を刻した篠田家の墓があり、江戸幕府以前から続いていることがわかっています。 現在の岐阜市の大方の土地を所有し、屋敷には江戸後期の儒学者、歴史家、漢学者の頼山陽と3男の頼三樹三郎が京都から定期的に教えに来ていました。父の名を頼治郎と命名したのも、頼山陽でした。頼山陽の「頼」という字と明治の「治」が当てられています。 「父は慶応3年生まれだけど、半年ほどで、時代は明治元年に移り変わった。旧来の徳川幕府の儒教の価値観を持つ両親に育てられながら、同時に新時代の空気を吸っていた。20歳で芥見村の初代村長になったり、父の生活は旧態依然としていて、でも観念は新しかったのね」